↑の本を読んで、いわゆる「差別用語」について考えました。

ところで、『図書館危機』の中で、検閲の対象となる用語に関するエピソードがあります。(ここから、大幅に話が逸れていきますよ。)
それは、「床屋・八百屋・魚屋」などの「○○屋」という表現。
これらを「理容院(理髪店)・生果店・鮮魚店」などと言い換えなくてはならない、というのです。全くバカらしい話ですが、これはフィクションの中だけの話ではなくて、現実においても(検閲こそされませんが)「放送禁止用語」というテレビなどのメディアで「注意を要する用語」とされているようです。書名はちょっと忘れましたが、確か森達也氏の関連の書籍で、そのような記述を読んだ覚えがあります。僕はそれ以上のことを調べていないので、断言はできませんが、そう言われてみると、確かに、少なくともニュース・報道番組などでは「○○屋」という言葉を聴くことはほとんどないような気もします。
なぜ、こんな風なことになってしまったのかは、これも推測の域を出ませんが、根本的に商売というものを蔑む意識が根底にあるからではないか、と僕は思うのですね。
例えば、業者と癒着して私腹を肥やしているような政治家に対して、「政治屋」と言い表すことがあります。これははっきりと、蔑みの意識が含まれた言葉だと考えられますが、ここにはそもそも(全体の利益を図るのではなく、自分だけの利益を確保しようとする、という意味での)金儲けそのものを見下す視点があり、そこから、物やサービスを直接金銭に換えることで利益を得る仕事(つまりそれが商売)の多くが「○○屋」と呼称されることから、「政治屋」という蔑みの表現が生まれたと考えられるわけです。
そして、そのような表現を多用しているうちに「○○屋」という用法自体が職業差別的な言葉ではないのか、という意識が芽生え、これを規制(そのほとんどは自主規制だが)しようという動きが出てきたのではないでしょうか。
しかし、これがおかしな話であることは、ちょっと考えてみれば分かりますよね。これは、もともと「○○屋」という言葉には差別的な(蔑みの)ニュアンスはなかったのに、そうした商売に対する差別意識を持った人間が考えだしたのであろう別の差別的表現によって、もとからある言葉まで差別を助長しかねない(かもしれない)用語とされてしまう、ということなわけです。これが当たっているとすれば、「○○屋」を差別用語として規制しようとする側の方が、よほど強い差別意識を持っていることになると思います。
だって、そういう商売一般に対しての差別意識がなければ、床屋や八百屋という言葉を聴いてもなんとも思わないでしょう。そう言い切ってしまっていいくらい、これらの言葉は普通に生活に密着した言葉だからです。逆に、そういう感覚からすると、「政治屋」という表現の方にこそ、違和感を覚えます。
いや、別に「政治屋」という言葉を使っても全然構わないとも思いますよ。要は文脈の問題であるわけで、差別を意図した文脈でなければ「○○屋」と言って何が悪いのか、ということが言いたいわけです。差別かそうでないかということは、文脈を注意深く読まなくては判断できないはずで、ある用語を使ったからといって、直ちにそれが差別的である、とは言えないよ、と。


とは言え、その一方でその用語の存在自体が差別的であるという言葉もあるにはあります。(さらに話が逸れていきますよ。)
例えば、警察官に対して揶揄したり侮蔑したりするときに使われる「ポリ」とか「ポリ公」という言葉。これは、差別的な文脈以外にはまず使われない言葉であるので、規制の対象になるのもやむをえないかも、と思わせる言葉でもあります。実際、THE MAD CAPSULE MARKETSという日本のロックバンドの初期の曲に“ハリネズミとポリ”という曲があるのですが、これは彼らのメジャーレーベルから発売されたアルバムでは“ハリネズミと××”と伏字のタイトルに変更され、歌詞カードと音源そのものからも「ポリ」という言葉は削除されています。*1
で、話はまたちょっとずれます。警察官を「ポリ」と呼ぶのは差別的表現であるのは間違いないので、使わないに越したことはないかなとも思うのですが、かと言って、「ポリ」と呼んだところで、警察官を“差別する”ことは可能なのでしょうか? というのは、警察という機構自体が国家権力を行使できる組織であるので、そういう権力を持っている人間を(バカにすることはできますが)差別することは、具体的にはほとんど不可能に近いのではないか、とも思えるからです。「ポリ」という言葉を使うとき、そこには権力に対する抵抗の意識が(意識的にせよ無意識的にせよ)込められているのであって、そう考えると、この言葉を差別用語と規定するのも、そんなに簡単ではないのかなという気がします。でも、もちろん、個々の警察官個人に対して、その人が警察官であるという理由だけで攻撃を加えたり、嫌がらせをするのは、差別かどうかとかそういう問題以前に、ダメです。


さて、「ポリ」という言葉以上に、はっきりと差別的な言葉もあります。
例えば「淫売」。
これは、ちょっとどう考えても使いづらい言葉です。僕個人は、よほどのことがあっても、まず使いたくない言葉です(なので、もう使いませんよ)。この言葉は、この言葉を直接投げつけられた人を傷つけるだけでなく、この言葉で持って罵られることの多い職業の女性、もしくはその職業に就いたことのある女性、職業にしなくてもそれに類似する行為をしたことのある女性をも傷つける言葉だからです。
そして、上記した警察官の例と違って、この言葉を投げつけられるのは、多くの場合、権力からはほど遠い立場の人たちです。この言葉を、もし罵倒の文脈で使うとしたら、それはまず間違いなく、職業差別であり、女性差別であり、ある部分では階級差別や身分差別であり、人格に対する差別であり、そして、何よりも自分自身が差別主義者であることの表明に他なりません。
そういう言葉は確かに存在します。
けれども、あえて、「けれども」と言いますが、こういう言葉でさえも規制の対象としてはいけない、とも思うのです。この言葉を使って、素晴らしい表現をするひとも存在するからです。もちろん、注意深く用いなくてはならないし、安易に用いることは当然批判・非難の対象になります。しかし、いちばん重要なのはその文脈なのであって、その言葉(単語)そのものではないのです。差別は言葉に宿るものではないのです。


で、僕はどうするかと言えば、この言葉を差別的な表現以外の文脈で使う自信はないので、今後もこの言葉を使うことはないだろうと思いますが。

*1:ま、これも自主規制なんですが。ちなみにこの曲の歌詞は、髪の毛を立てたり、鋲のたくさん付いた服を着たりしている(パンクスの)自分をハリネズミと表現し、その自分に対して横柄な態度で職務質問をしてくる警官とのやり取り描いて、それによって自分の常識や良識を信じて疑わない人たちを揶揄する、という内容で、僕は結構好きです。