「客観」は無理だから、むしろ「主観」を自覚したほうがいい、という話。

昨日の日記にaozoraさんからコメントをいただきました。どもども、ありがとうございます。
そこで、コメントレスを書いていたら、結構長くなってしまったので、別エントリを起こすことにしました。
以下、aozoraさんのコメント全文↓

こんにちは。言及ありがとうございます。
ウパさんの記事には私も心を動かされました。
フィクションにしても、体験談にしても、世間知や主観を含ませずに書くことはとても難しいですよね。
事実というのも、その人が見た事実であって、厳密には事実と呼べる事象ってごく僅かでしょう。
ニュースさえカメラマンの意思や伝える側のスタンスに色濃く影響されているけれど(私はそれを以前「虚構だ」と書いて批判されましたが)大切なのは見たり聞いたりしたことを鵜呑みにしないで、自分自身で考えてみることだと思っています。
感動にしても批判にしても、自分の心の琴線に触れた(批判の場合はマイナスの琴線←変な表現ですが)部分に反応しているのであって、触れない人にはなんということもない事だったりするわけで。
想像力とか共感値の差異とかも関係あるでしょうが。

現実に体験したことプラス書き手の持っている世間知や思想的なものによって体験談は形作られると思うのですが、その考え方がいけないということは、表現や思想の自由を認めないということにならないか、誰かが傷つく考え方だからそれはいけない考え方だとしてしまうのは、すごくおかしいよなあと思うわけです。
それが『創作にすれば解決するかも』を書いた真相です。
炎上したブログは私も随分偏った思い込みがある書き手だなあとは思いましたが、「自分は受け入れられない」のと「まちがっている」は違うと思うのだけれど、区別されないのをよく見かけるように思います。
ただ、偏っていても受けいれらる話もあるわけでその違いはなんだろう? 
オーラの泉」でしたっけ、知らないのですが、例えば美輪明弘さんの体験談や人生相談はめちゃめちゃ偏ってますよね。
ただ、根底に流れている精神が自由というか、いろんな人の生き方を肯定していこうという優しさや寛容さを感じます。
心が動かされるって、細部じゃなくてそういう奥深い部分にあるのかもしれない、なんてことを思いました。

僕も、ニュースは「虚構」なんではないか、少なくとも虚構の部分が多くあるのではないか、と思って見ていることが多いです。「嘘」だとは言いませんが。というか、そういう「発信者の意図」込みで作られるのが「表現」なのであって、「報道」も表現の一部であるということに思い至れば、「見たり聞いたりしたことを鵜呑みにしないで、自分自身で考えてみること」はそんなに難しくはないはずなんですけどね。
「報道は表現ではない」ということであれば、そんなつまらないものをわざわざ見たくないよ、という気もします。
でも、困ったことに、作り手にも「報道に主観をまじえてはいけない(報道と表現を一緒にするな)」みたいな思い込みがあるらしく、それが結果的に、最近の報道が「世論」におもねるだけのものになってきている大きな原因なのかな、とも思ったりします。


いっそのこと「創作」にしてしまえば、主観全開の内容でも(それが社会や世間に受け入れられないものでも)許容されうるのではないか、というのは確かにそうだよな、と思います。それに、創作ならば、否応なしにおのれの主観と向き合わなければならなくなるし。
ただ、創作は創作で別のハードルがあるし、そもそも創作であると断っても文句をつけてくる人は文句をつけてくるものだ、というのも悩ましいところですね。


僕としては、「書く人」は、いくら客観的に書こうとしても、本当の意味での客観なんてありえないのだから、むしろ、これは自分の主観なんだと自覚して、それを明らかにするという配慮の方が重要ではないかな、と考えます。
自分が「読む人」になるときは、「これはこの人の主観なんだ」ということと、「自分が『この人の主観』だと思っていることもまた、自分の主観なんだ」ということに気をつけていたいですね。