言葉はデジタルなもの。だから、アナログな心を表現しきれない。でも、言葉でしか表現できないものがある。

ほとんどタイトルで言いきっちゃってますが。
言葉は記号だ。だから、割と簡単にデジタル信号に置き換え可能である。映像や音声よりも、言葉というものが圧倒的にインターネットとの親和性が高いのは、そのせいなんだろう。
でも、デジタルなものでアナログなものを表現しようとするとき、それは必然的に細部を捨象する。切り捨てる。そこでどうしても実体と言葉との間にズレが生じてしまう。この文章もそう。それに、「細部」と書いたけれど、切り捨てられたものが「細部」かどうかなんて本当は分らない。
だから、「言葉は全て嘘」というのは正しい。そう書いたこの文章が既にその「嘘」にはまっている。矛盾している。そんな風に簡単に言葉は嘘をつく。言葉を使う人間が嘘を作り出すんじゃない。言葉を用いた時点で、それはすでに嘘を内包しているんだ。
僕の言葉を信用しないでください。僕の言葉を鵜呑みにしないでください。ここには僕の言葉があるだけで、僕は存在していません。


では、なぜ人は、いや僕は、言葉を綴ろうとするのか。なぜ文章を書くのか。
言葉では僕の心を伝えきることはできない。「悲しい」という言葉は、僕の「悲しみ」を表現しきれない。僕の中の「悲しみ」と名付けられる前の混沌とした感情を言い表せない。それは動かしがたい事実だ。
しかし、時に言葉は僕の心を置き去りにして、真実を描き出すことがあるんだ。その「真実」が普遍的なものか一時的なものかは分らない。でも、そんなことはどうでもいいことなんだ。重要なのは、その真実に触れたときに、僕の中で心が反応するってこと。嘘ばかりの言葉の塊が真実を探り当てたということを、うれしいとか喜ばしいとか感じること(あるいはそれ以前の感情を持つこと)。
よくわからないが、それはたぶん良いことなんだろう。



「知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - どれだけ考え抜いたか、どう生きてきたのか、それがすべて」の追記部分を読んで思ったことを書きました。