「科学」と「宗教」ですか…

「流行り」のタグで合ってるのかどうか分かりませんが。
前に一度書いていますが、僕にとって、宗教は信仰の対象ではなく、興味の対象です。つまり、好奇心の対象です。儀礼的に宗教行事に参加するときは、敬虔な気持ちよりも、興味本位な気持ちが勝っていることが多いですね。
どうも、僕は、宗教が(好き嫌いで言うと)好き、らしい。
でも、信仰しているわけでもない。そこは一線を引いておきたいと思っている、みたいです。


で、『good2ndの日記 - 穏健な宗教』という記事に対して、はてなの論客たちがいろいろお書きになっていらっしゃるわけですが、まぁ、宗教と科学を対立概念として捉えるのではなくて、補完関係になっていると考えた方が、それこそ「穏健」なのではないか、と僕なども愚考するわけでして。
『NC-15 - 宗教と科学って共存というより、全然別物のものだと思うが?』や、『大学生ニートblog - 科学はいつも宗教と共にある』などの記事は、僕の「個人が、科学と宗教両方について、利用できるところは上手に利用する、でいいのでは」という考え方からすると、そこそこ共感できるのかな、と思いました。いや、全然違うかもしらんけど。


ただ、ぐるぐる考えているうちに、「ここで言う科学って、ひょっとして科学教?」という疑問が湧いてきました。
僕は、最も「科学的」な態度というのはみちアキさんのように「いるともいないともわからん」と言うこと、だと思います。それこそ、正しく「科学的」なんじゃないですかね。
で、科学と宗教を対立させてしまうと、「お前は、科学を信じるのかよ、それとも、宗教を信じるのかよ」という問いが生まれてきてしまうわけですが、それって、おかしいよな、と僕は思ってしまいます。そもそも「科学」って信じるものですか? 百歩譲って、信じるものだとしても、科学を信じる、と、宗教を信じる、の「信じる」って、それぞれ意味が違うものじゃないのかな、と。
まぁ、「科学は信じるものではなくて利用するもの」と言うと、「科学技術」の側面を強調しすぎだと言われちゃうし、「科学は、信じる・信じないに関わらず、そこにあるものでしょ」と言うと、それこそ宗教そのものだと言われかねないので、なかなか難しいですが。
うーん、科学の「信じる」は、「信頼する」とか「信用する」って感じで、完全に下駄を預けちゃう感じではない、という気がするんですよね。というか、僕は、科学や科学的思考は大事だとは思うけれど、「科学」そのものは「絶対」でも100%でもない、むしろ、不完全でしょっちゅう手直ししないといけないものなので、まるごと自分の身を託してしまうことはできない、と考えているんですよ。せいぜい、「信頼」どまり。とりあえず、他と比べて、おかしなことはそんなに言ってなさそうだし、なにより便利なので、今のところは利用させてもらってるけどね、というような。
それは、宗教の「信じる」=「信仰する」とは、やっぱり違うもんだと思う。「信仰」って、もっと、相手の懐に全力で飛び込んじゃう、みたいなイメージがあるわけですよ。あ、「科学」を信仰している人というのも、たぶん居て(これが結構多そうな気がしますが)、そういうのは「科学教」だと思います。
んで、僕個人の定義だと、「科学教」と「科学」は似て非なるもの、です。


話を、僕個人の問題にしてしまうと、僕は、宗教にも科学にも大いに興味がありますが、「信仰」を持つに至るほどの度胸はない、ってことになるでしょうか。僕は、神様も霊魂も「居るか居ないか分からない」という立場ですが(以前はヘタレな無神論者と言ってましたが)、初詣でのときには、僕なりには真面目に(きちんとした人から見れば「不真面目に」、かもしれませんが)願掛けをしてきました。でも、お参りが終わったあとは、「自分で何とかしなくちゃいかんよなぁ」と、思ってるわけです。