“世界に一つだけの花”を読む。

RSSリーダーに登録しているブログで何度か継続して、この曲がらみの話題が取り上げられていて、ちょっと気にはしていたのですが。
前にも書きましたが、僕は、この曲の解釈自体にはさほど言いたいことはないし、槇原敬之の作った曲の中ではそう大した曲でもないなー、と思っています。それに、僕は、音楽を語るときに、社会なり世相なりの文脈に落とし込んで読み解こうとすることに、ちょっとばかり抵抗もあります。というか、僕個人にとってその音楽がどういう意味があるのか、という観点以外にはあまり興味がありません。
個人的にはそれで終了なのですが、ただ、この曲の特に歌詞に対する批判記事などを読むと、うーん、これってそういう歌だっけか? という疑問がふつふつと沸いてきてしまって、これは一度元の歌詞を自分なりに検討してみた方がいいかしら、という気持ちになってしまったのですね。
で、以下にその試みを、書いてみよう、と。

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中 誇らしげに
しゃんと胸を張っている


それなのに 僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で
一番になりたがる?


そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい


困ったように 笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
嬉しそうな横顔


名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気付かないような場所で
咲いてた花のように


そうさ 僕らも 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい


小さい花や 大きな花 一つとして
同じものはないから
No.1にならなくても いい
もともと特別な Only one

…と、ここに全文引用してしまいましたが、ま、凡庸と言えば凡庸な歌詞でしょうかね。
この歌詞を読んで、僕が最初に思ったのは、「この歌を日本でほとんど一番人気のあると言っていい、アイドルグループが歌っていたというのは、これ以上ない皮肉だな」というものでした。世相の文脈に落とし込んで読み解くのには抵抗があると、さっき書いたばかりなのに!(笑)。
まず、冒頭の花屋の場面についてなのですが、この歌い手というか語り手の視点に立って見てみましょうか。この語り手は、街角の花屋にやって来て、そこに陳列された花を眺めている。散歩のついでにふと立ち止まったのか、目的があって来たのかは分かりません。
彼はそこでいろいろ思い巡らします。「あー、たまには奥さんに花でも贈ったら喜ばれるかなー」と思ったかどうかは分からないけれど、とにかく「こんないろんな種類の花があるけれど、どれが一番きれいかなんて決められないなー」といささかナイーブな感想を抱きつつ、その思いは飛躍します。
「こんな風にたくさんの花があっても、花は別に『俺が一番だ』とか争ったりしてないんだよな。『俺は俺だぜ』って胸を張っているみたいだ」
とか、
「それに比べて、俺ときたら、営業成績を上げようと四苦八苦してるけれど、なんで一番にならなくちゃいけないんだろうなー」
もしくは、
「それに比べて、俺ときたら、ヒット曲を作らなくちゃってプレッシャーかけられて、なんか悩んだり苦しんだりしてるけど、それって意味あるのかなー」
とか、そんな感じ。ちょっとお疲れなんじゃないでしょうか。
さらに、
「他の人と比べると言ったって、一つの基準で良いとか悪いとか決められないし、その中で誰が一番かと争うのも変だよな。もっと自分自身をよく見つめて、自分がより良くなれるように頑張ればいいのに」
というように思考が進んできたようです。ま、ここに欺瞞があると言えばあると言えるでしょうか。「一人一人違う種を持つ」のは良いとして、どうすればその花が咲いたことになるのか、どうしたら咲かせられるのか、といったことは捨象してしまって、個人の努力の問題になっているわけです。歌になると、非常に耳障りのいいフレーズ(「その花を咲かせることだけに/一生懸命になればいい」)になっているのですが、実は結構厳しいこと言ってないか、という気もします。
この歌詞から「あなたは世界にただ一人の人間としての価値を持っているのだから、他人と比べて一番である必要はない」というメッセージを受け取るのは分かるんですが、「努力を放棄していい」とは一言も言っていない。
先へ進みます。
語り手がふと横に目をやると、どの花を選んだらいいか迷っているらしい人がいる。男性か女性か年齢も定かではないし、花を買う目的も分からないけれど、とにかく語り手の意識に引っかかってきた。で、興味は花からその人へシフトします。
「あぁ、この人が迷っているのはどの花もきれいに思えて一つに絞りきれないんだな」
ちょっと、思い込みが激しい感じもしますね。この後、しばらく悩んだ末にようやく店から出てきたその人の手には、色とりどりの花束があった。どこからその様子を見ていたのか気になりますが、恐らく、買いもしないのにいつまでも花屋の店先に突っ立っているのも不審に思われそうなので、向かいの喫茶店にでも入って眺めていたんでしょうか。それはともかく、その花束を抱えた人の横顔を見て、語り手はあることを思い出します。
「前にも、俺が悩み苦しんでいたときに、あんなふうに笑いかけてくれた人がいたっけ。あの人も、他人と争うような人ではなかったけれど、僕にとってはかけがえのない人だったなー」
この場合、花は語り手を肯定してくれる何者かのメタファーであると考えると、何にでも置き換え可能です。ヒット曲というものにはこういう解釈の余地を大きく残したフレーズが不可欠ではないか、と思います。それによって、聴き手は自分の思いを勝手に込めることができる、と。
とにかく、語り手はかつて自分を肯定してくれた、おそらくは「無名」の、しかし語り手自身にとってはかけがえのない誰かを思い浮かべながら、その人の「生き方」を讃えるかのように「その花を咲かせることだけに/一生懸命になればいい」ともう一度歌います。
そして、問題の「No.1にならなくても いい/もともと特別な Only one」というフレーズが登場するのですが、こうしてみると、この歌は、疲れた人に対する癒しとしての要素が非常に強い曲でありながら、その一方で、オンリーワンであるためには「一生懸命」頑張る必要がある、ということが前提になっているようにも感じます。
「頑張っても花が咲かなかったらどうなるの」とか「そもそも、何を持って『咲いた』と見なせるの」とかそういうネガティブな要素を全て捨象してしまっているのが、気に入らないと言えば気に入らないし、欺瞞だな、とも思うのですが、歌なんだから、それはそれでアリか、とも思わないでもない。マッキーの職人仕事が成功してるんだな、と。
というのは、僕の解釈であって、正しい答えというのでは全然ないのですが、というか、妄想が大分混じっているのですが、このように歌詞に即して考察してみると、この歌の持つ「偽善」っぽい印象は大分薄らぎました。かと言って、じゃあ、この曲が好きになったかと問われると、そうでもないんですが。ただ、この歌が「生まれながらにみんな特別なオンリーワンなんだから、無理して頑張らなくてもいいよ」みたいな感じで受容されてるとすると、いや、それは違うでしょ、とは言いたくなります。


…と、ここまで書いてきて、ようやく気付いたのですが、この歌が嫌いな人って、この歌そのものだけじゃなくて、この歌が受け入れられている背景というかコンテキストというか文脈もひっくるめて嫌い、ということなのか。
だから、そもそもそういう社会や世相を通して音楽を解釈しようとすること自体を(意義がないとは思わないけれど)、好まない僕から見ると、なんでそこまでこの曲を批判するんだろう、ということがなかなか理解できなかったわけか。
で、もう一度、「僕にとって」のこの曲の意味(あるいは価値)を書くと、そうたいした曲でもないけど、そこまで嫌うこともないか、ぐらい。マッキーにはもっと他にもいい曲がたくさんあるから、そっちを聴いてます。
あと、どうでもいい蛇足を書いておくと、こういうヒット曲はヒットすればするほどアンチというか反発を覚える人が多くなるし、すごく突っ込みたい衝動に駆られる餌がいろいろ仕込んであるので、みんな言及したくなるんだろうな、と思います。僕も釣られた口ですね。