『パンダコパンダ』を2日に1回くらいの割合で見る生活。
あと、『となりのトトロ』と『魔女の宅急便』も。娘が今2歳なんだけれど、ばあちゃんからもらったDVDを繰り返し見てるわけです。この歳でメディアに毒されてしまうのはどうよ、という気もしなくはないが、まぁ、それ以上に親が既に毒されまくっているのでどうしようもないです(自嘲)。
- 出版社/メーカー: ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント
- 発売日: 2001/12/19
- メディア: DVD
- 購入: 1人 クリック: 77回
- この商品を含むブログ (68件) を見る
パンダブームにわく1972年に公開された「パンダコンダ」シリーズは、宮崎駿(脚本)と高畑勲(演出)という「黄金コンビ」が手がけた劇場用短編アニメ。
パンダコパンダ&パンダコパンダ雨ふりサーカス [DVD] - はてなキーワード
おばあちゃんと2人暮しのミミちゃんだったが、おばあちゃんが遠くに出かけることになり、ミミちゃんはひとりお留守番。そこに言葉を話すパンダの親子がやってくる。ずっとパパと弟がほしかったミミちゃんはこの予期せぬ客に大喜び。家族として暮らし始めるのだが、動物園の人が探しに来たことから大騒動に…というのが、第1作『パンダコパンダ』。
第2作『雨ふりサーカス』は、第1作で大団円を迎えて一緒に暮らすことになったミミちゃんとパンダ親子の家に、サーカスから逃げ出してきたトラちゃんが闖入(ちんにゅう)することから幕を開ける冒険談といった趣き。
アニメ映画黎明期らしいのんびりとしたストーリー運びながら、見せ場はきっちり作られており、その後の宮崎・高畑の作品に通じる完成度の高さを垣間見ることができる佳作。なかでも第1作には、『となりのトトロ』などの原点といえるようなシーンが点在している。もちろんそんなことを考えなくても、ミミちゃんの元気のよさとパンダ親子のかわいい仕草に目がくぎづけの楽しい作品だ。(安川正吾)
まず、小学生の女の子がいきなり一人暮らしを始めるというのが今では考えられない。すわ虐待かネグレクトかという問題になってしまいそうだが、そうはならない。なぜなら、パンダの親子がやって来たからだ。
パンダの父親(パパンダ)はミミちゃんに両親がいないことを知って、「こどもには親が必要です」と言って、自分がミミちゃんのパパになることを宣言する。それを受けて、ミミちゃんは子パンダ(パンちゃん)のママになることを申し出る*1。それはこの3者にとっての幸福なんだ。
ものすごく簡単に言うと、この話は家族の解体と再生の物語だ。僕は、「擬似家族」ということばが嫌いなんだけれど、まぁ、そういったものの必要性と有用性がさりげなく主張されているんだな、と感じた。血の繋がった「本当の」家族だけでなく、こうした新しい家族の形を提示することによって、より大きな可能性を示唆しているように思えたんだ。
「親のない子」「親から見捨てられた子」「親が親としての機能を果たしていない家の子」たちに対して、与えられる選択肢は現状では「施設」がほとんどだ。でも、そうした子たちにも家族なり家庭なりが必要なんだ。それは「本当の」家族なんかである必要はない。パパンダのような大人が、「こどもには親が必要です」を自ら実践できるような大人が必要なんだろう。*2
ところで、『パンダコパンダ』にしても『トトロ』にしても『魔女宅』にしても、電車や乗り物のシーンが割りと頻繁に出てくる。単純に作者が好きなんだろうな、という気もするけれど、これはたぶん「異界」と関係していると思う。
「異界」というと文学チックな言い方になってしまうけれど、要するに「ここではないどこか」であって、それはファンタジーの舞台となる。
鉄道というのは、「異界」と「こちら側」を縦断する越境の乗り物であって、しかもその軌道そのものが境界線でもあって、「越境」と「辺境」の意味が重ねあわされた存在である。まぁ、銀河鉄道とかもそう。
『パンダコパンダ』は駅でおばあちゃんを見送るシーンから始まる。おばあちゃんは「長崎」という実在の土地へ出かける。つまり、ここではむしろ異界は主人公のいる場所の方だ。*3
「異界」は「異界」であって、現実ではない。でも、そこは電車(鉄道、時にはバス等)で繋がっている。つまり、行こうと思えば行けそうなところであると暗示されている。こどもの頃に、終点の前で電車やバスを降りるときに、このまま乗っていたらどこへ行ってしまうんだろう、と想像して、なんとなく怖く思ったり、ワクワクしたりした覚えのある人にとっては、それは意味のあることなんだ。もちろん僕にとっても。うーん、上手いよなぁ、やはり。