失言だか本音だかは分からないけれど
最近、閣僚の人たちがいろいろ話題提供してくれてますが、ああいう発言を批判するのは良いとして、「発言の責任とって辞めろ」というのはどうなんだろ。それは別の問題だと思う。
閣僚の人たちがダメだなぁ、と思うのは、居酒屋でする話(プライベート)と人前でする話(ソーシャル)の区別がついていないところ。バカなんじゃねぇの、バカなんだろな、と思う。でも、問われるべきなのは、彼らが公的な立場にあって、どういうことをなしたか、という点。つまり、パブリックの問題。残念ながら、と言うべきかどうか分からないけれど、今回の話題はそこまでは問えないでしょう。
マスコミだか誰だかが、「世論」を煽って「更迭しろ」と言う。それ自体はいい。そういう意見はあっていい。でも、それに引っ張られて辞めさせたりするのは、危険だ。違法行為があれば、それはパブリックに反することだから、処分の対象になるだろう、当然。けど、あの発言たちは違法だろうか? そういう意味では処分の対象にはならないし、しちゃいけないと思う。
ここは注意しておかなくちゃいけないんだけれど、民主主義は「民意」を反映させなくちゃいけない。でも、「民意」と「世論」は違う。詭弁に聞こえるかもしれないけれど、「世論」は世間話の最大公約数に過ぎない。だから、「世論」の責任は誰も取らないし、取れない。じゃあ、「民意」ってなんだ、ということになると、それは「選挙の結果」だ。それしかありえない。あるいは、住民投票や国民投票の結果のような、直接的に自分の意思が示されたものだ。そして、その「民意」の責任は、(選挙に行かなかったという選択も含めて)有権者が負う、ということになっている。だから、事前の“世論”調査や選挙予測が、選挙結果と食い違うなんてことはザラにある。それは予想の誤差とか限界とかいうよりも、「世論」と「民意」は違うものだからだ。
で、「世論」に引っ張られると危ない、と僕が思うのは、世論というものが(本質的に無責任なせいで)暴走しやすいからだ。そして、「民意」もまた、「世論」に引っ張られたりすることがある。世論なんか気にするな、自分の頭でよく考えろ、と僕は選挙のたびに自分に言い聞かせている。なんか孤独感を覚えることもあるけれど。
だから、あんなバカな人たちが閣僚をやっていられるのも、「民意」のおかげなんだ。そして、あんなバカな人たちには閣僚なんかさせておけない、と考えるのなら、やるべきことは次の選挙でその人たちを落選させることだ。あるいは、そういう人たちを閣僚に選ぶセンスの与党の力を弱めるために、それ以外の政党に勝たせてやることだ。そして、それを実現するために、他の人たちにも働きかけることだ。
それしかない、と僕は思うよ。
あぁ、僕も何年か前に、全く同じようなことを考えてました。
こちらを読んで。→『オトコのキモチ2 : たまねぎ』
1枚剥ぎ取り,もう1枚剥ぎ取り,
順に剥いでいった。
あるところで,
これはほんとうの自分?
それともまとっているもの?
と迷いはじめる。
迷うということは,まだほんとうの自分じゃない。
さらに1枚剥ぎ,もう1枚剥ぎ…。
けっきょく,全部剥いでしまえるんだな。
たまねぎのように。
そう、「自分」はたまねぎみたいに、皮をめくっても出てこない。だって、そのめくった皮そのものが「自分」なんだから。僕は、これに「たまねぎ理論」という名前を勝手に付けてました。
これを思いついたとき、嬉しくて(なのか何なのか分からないけど)結婚する前のうちの奥さんに話して、嫌そうな顔をされた覚えがある。ごめん、興味なかったんだよね。
あとこちらも。→『歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 本当だと思えばそれは本当なのだ』
虚飾を纏おうが、纏っているのも自分だ。他人が見てその虚飾が嘘だったとしても、それは本人にとっては嘘ではない。嘘とは何時か本物に変わる可能性のある物なんだよ。可能性がある限り、それは嘘ではない。自分が本当だと思うものが本当で、嘘だと思う物が嘘なんだ。それでいいじゃないか。私はそう思っている。
xuraさんのブログを読んでいると、こういう言葉がポロポロ出てくるので、すごいな、と思う。
僕は、今は「本当の自分」をあんまり気にしないことにしています。仕事をしている僕も、遊んでいる僕も、ブログをやってる僕も、全部自分だもの。
「本当の自分」を探している人は、「ライチ理論」なんだと思う。表面の皮をむくと、そこには果肉がある。でも、そのさらに奥には硬い種があって、それが「本当の自分」なんだと。外面も、親しい人にだけ見せる顔も、「本当の自分」ではない、というような。そう思っている人には、それが「本当」なんでしょうね。
でも、そうではない見方もあって、「たまねぎ理論」とはちょっと違うのだけれど、「ドーナツの穴理論」というのがある。「本当の自分」というものは「ドーナツの穴」と一緒。「ドーナツの穴」は確かに存在しているけれど、ドーナツそのものがなければ存在しえない、不可分のもの。穴(=本当の自分)を取り出そうとして、周りのドーナツを取り除いてしまうと、穴もなくなってしまう。だから、本当の自分を知るためには、そこだけに目を凝らしていてもダメで、ドーナツ全体を見ないといけないよ、ということ。今は、こういう考え方を選ぶかな。強いて言えば。
あと、「ピーマン理論」とか「落花生理論」とかいくらでもやれるんですが、あまりにも言葉遊びが過ぎるのでやめておきます。