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アンパンマン絡みの与太話をもちょっと。

何が凹むって、自分がエントリを上げた直後に、他の人が似たようなことを既に書いていることに気付くのは、凹む。ま、しょうがないや、これはパクリじゃない、シンクロしただけだもの、と自分に言い聞かせる。それが正しいのは、自分だけはよく分かってるし。
それはともかく。
昨日の記事の続きって訳でもないけど、アンパンマンの「捨身」についてもうちょっと考えてみた。


僕が「捨身」と聞いて真っ先に思いついたのは、手塚治虫の『ブッダ』の冒頭にも引かれているウサギの逸話だ。ググってみると、Wikipediaに項目がある。→『月の兎 - Wikipedia』

猿、狐、兎の3匹が、力尽きて倒れている老人に出逢った。3匹は老人を助けるようと考えた。
猿は木の実を集め、狐は川から魚を採り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。
自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。
その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

仏教の説話には他にも「捨身」の話があるようだけれど、これが一番きれいな話なんじゃないかな?
この話とアンパンマンが自分の顔を食べさせるエピソードを同一視するわけにはいかないけれども、通じるものがあると言えばあるかな。というか、自己犠牲を取り扱ったエピソードなんてどれも似通ってしまうものかもしれないが。ただ、アンパンマンもウサギも、相手を助けるために自身の肉体(の一部又は全部)を食べさせるわけだ。
そういえば、捨身供養については極東ブログの過去記事にもあった。→『極東ブログ: [書評]砂漠と幻想の国 アフガニスタンの仏教(金岡秀友・菅沼晃・金岡都)』
finalventさんは古代のアフガンの地に仏教の原風景を見出しているように読めたのだが、それが正しいかどうかの判断は僕にはできない。しかし、ここに引かれたいくつかの捨身のエピソードは、たしかに現代の日本人の感覚から見ると理解しにくいものではあるが、むしろ、アンパンマンの顔を食べさせるエピソードには近いのではないかと思えた。あぁ、ここで言うアンパンマンは、“最初期の”アンパンマンのことね。アニメ化以降のものではなくて。これね。坂東英二似のやつ。↓

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

ところで、Wikipediaによると、アンパンマンの作者やなせたかし氏はクリスチャンだそうだ。(聖公会というのは、イングランド国教会が母体になっているそうな。)→『やなせたかし - Wikipedia』
作者の信仰とその作品をストレートにつなげて考えてもいいのかどうかは、ちょっと微妙な問題だが、アンパンマンのお話に仏教っぽさを感じるのに、作者がクリスチャンってのはどういうことなのか。案外、仏教とキリスト教ってごく近いものなんじゃないのかしら、とか思ったりもする。
もう、finalventさんにおんぶに抱っこのエントリになってきたけれども、仏教がゾロアスター教の影響下にある(というかその変種である)のならば、キリスト教もまたゾロアスター教の影響下にある(その後継宗教である)ということも言えるわけで、両者が実は兄弟宗教であるのならば、上記してきたような感覚が似通った部分というのはあって当然なのかもね、とかも思う。うーん、この辺すごく微妙な問題をはらんでいるような気もしますが、少なくとも、特定の宗教を貶めたり冒涜したりしようとする意思はない、ということは断っておきます。
ゾロアスター教には、善神と悪神の戦いが現在行われるところであって、最終的には善神が勝つという世界観がある。これって、キリスト教で言う最後の審判にそのまま引き継がれているとよく言われるけれども、仏教で言うとあれじゃないか、「弥勒菩薩が釈迦の入滅後、56億7千万年経ってから姿を現して衆生を救う」ってのと同じなんじゃないか。でも、これは単なる思い付きであって、何の根拠もない与太話というかトンデモなので本気にしないように。
やっぱり、グダグダになってきたけれど、まとめずに終わる。