今さらだけど、罵倒について僕が思っていることを書きますよ。

まずは「罵倒」の定義をしておいた方がいいのだろうか。僕は漠然と「その内容が正当か不当かにかかわらず、特定の相手を過度に貶める表現」というふうに考えています。「過度」ってのがまた難しいけれど、ある表現(言葉)が罵倒かそうでないのかということを問題にしたいわけではないので、そこは曖昧なままにしておきます。
で、僕としては、罵倒表現を使うこと自体は問題視しません。というか、ブログであれ何であれ、(公開された)文章というものは全て「表現」である、と考えているので、書き手が自分自身の判断で、罵倒を選択するのは「あり」だという立場です。というか、何をどう書こうがそれは書き手の自由*1であって、法に触れなければ基本的には何でもあり、のはずだと思うわけです。
一応断っておくと、僕自身は罵倒はありだと考えていますから、僕自身に対する罵倒についてもそれを許容する、ということになります。しかし、これは罵倒の中身・内容をも許容するということではないので、それが的外れだと思えば、指摘なり反論なりするかもしれないし(無視するかもしれないし)、その際に罵倒表現を使うことを選ぶかもしれません。
ただ、実際のところ、僕自身はこれまで罵倒表現をほとんど使ってこなかったし、これからもそんなに使わないだろうな、という気はします。これは向き不向きの問題じゃないかと思いますが。あと、僕は、正面切った罵倒ということも今のところ全くと言っていいほどされたことがないので、実際に罵倒されたら考えが変わるかもしれない、ということはありえます。



ところで、罵倒表現ということを考えていたときに思い出したのが、SEX PISTOLSというバンドの曲。中でも“GOD SAVE THE QUEEN”という曲のこと。歌詞はhttp://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/97902/Y025394で確認できますが、曲名はイギリスの国歌を借用していて、その内容はイギリス女王に対して「ファシスト」だの「人間じゃない」だの、言いたい放題・罵倒し放題でほとんど言い掛かりに近い、というか言い掛かりである。
Sex Pistols - God Save the Queen (Studio)
でも、この曲(とバンド自体)に対して多くの人たちは眉をひそめたけれど、熱狂的に支持する人たちが居た(そして今も居る)のも事実だ。音楽そのものは優秀な(ある意味ごく普通の)ロックンロールだが、この曲の「NO FUTURE」というスローガンは、当時の若者たちの閉塞感を見事にえぐり出してしまった。今では古典というかスタンダードになりすぎて、よほど上手くやらない限り、カバーするとかえって恥ずかしい(痛い)ことになってしまいそうな曲でもあるが。
ともかく、この曲(今回の記事のテーマに即していうと、この曲の罵倒表現)は、ある一定の支持を得た、と。とは言え、これを支持しない人たちも大勢居たわけで、“GOD SAVE THE QUEEN”1曲だけのせいではないけれど、保守層やナショナリストたちからはすさまじいバッシングや圧力を受け、SEX PISTOLSというバンド名ではイギリス国内ではライブ活動ができないほどの状況になってしまう。*2それはそれで、ちょっと行き過ぎだろ、と思わないでもないが、彼らのそれまでの言動・活動からすると自業自得という気もする。自業自得だけれど、それでもなお、そうしたやり方でしか表現できないものがある、ということを示したという点において、僕は彼らをすごいな、すげぇーな、と思う。
以後、パンクロックと言えば、罵倒してナンボみたいなことになってしまった責任の大半はSEX PISTOLSにある、というのもその通りだが。(余談だが、日本のブルーハーツは、罵倒をほとんど使わないのにパンクロックたりえていた稀有な例である、と思う。)


結局何が言いたいかというと。
ある文章で罵倒が使われているかどうかは、僕にとっては大した問題ではない。文脈に照らしてその罵倒が適切なものかどうか判断する、ということにも、あんまり意義を感じない。原則論で言えば、どんな表現方法を用いようともその書き手の自由だから。(「書き手の自由」は相手にも存在するので、予想以上の攻撃を受けてもうろたえないだけの覚悟なり心構えなりは、ないよりはあった方がいい。覚悟なんかなくても、その自由に対する責任は背負わざるを得ない*3んだけどね。)
そして、そのような視点以外から、例えば、道義的にどうかとか、内容が正当なものであると言えるかどうか、という視点から見ると問題がある、というようなことであれば、それに基づいて批判する(あるいは罵倒し返す)ことは、当然していいし。あと、罵倒を選ぶことによって、文章自体の伝えたいことが分かりにくくなってしまっている、という批判(批評・指摘)も「あり」だ。
個人的には、原則論を大きく超えた部分(まぁ、だから道義的な側面とか)を問題視するのは気が進まないが。「道義的」と言っちゃった時点で、胡散臭く感じてしまうから。

*1:表現の自由とか、言論の自由という意味での自由。

*2:そして、このバンドは、アメリカツアー中にボーカリストのジョニー・ロットンが脱退することによって、空中分解してしまう。

*3:要するに、罵倒表現を選んだ結果、逆に自分がくそみそにけなされたり、ひどい目にあったりしても、それを甘んじて受けるしかない、ってこと。