『b# - 「一文を短く」の続き』を読んで

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リンク先の記事を読んで、少し思ったことを。あちらはメモ感覚で書いてらっしゃるそうなので、こちらも全体に関しての感想というより、細かい部分について書きます。

よねみつさんも「それぞれ」省略派だった。辞書を引いて意味がほとんど同じだったらしい。

国語辞典というものはそういうものなのよ。似た意味の言葉の使い分け方について言及しているものはほとんどない(明鏡は使い分けを明確にしようとしているようだけど)。大体、普通の一家に1冊あるような小辞典は大概、広辞苑ベースなのよね。そうじゃないのもあるけど。新明解とか(あれはあれで問題ある)。

とにかく、国語辞典というのは知らない言葉の意味を知るにはいいけれど、既に知っているいくつかの言葉の違いを見出そうと思ったらまず無力だ。

と書かれているのだが、これは全く同感。
辞書というものは、「意味を定義する」ものなのだが、定義とは要するに「ある言葉を別の言葉に置き換える」ということに過ぎない。だから、自分の知らない言葉に出くわすと、辞書を引いて、自分の知っている言葉に「置き換える」作業をするのだ。(だから、またそこに自分の知らない言葉が出てくると、さらに調べなくてはならなくなる。)
そこで、腑に落ちれば、「言葉の意味が分かった」としていいわけだが(本当に正しく理解したかどうかは、本人には分からない)、この例(「それぞれ」「ひとつひとつに」)のように意味の似ている単語の時には、ちょっと困ってしまう。全く同じ意味で使う場合もあれば、微妙にニュアンスが異なる場合もあるのだ。それは、文脈で判断するしかないし、その判断はある程度の国語力が要求されるものでもある。
まぁ、辞書って使えないことも多いよねー、ってことですね。


ところで、「新明解」といえば、僕の短期間の非常勤講師時代に、その学校の推薦の辞書になっていたことがあった。つまり、その学校に入って新しく国語辞典を買う生徒は「学校推薦だし」ということで、ほとんどが「新明解」を買っていたのだ。
僕も最初のうちは、生徒と同じにしておいた方が良いかと思って「新明解」を使っていたが、途中でやめてしまった。あれは語句の解釈が非常に個性的で、「読み物」としてはとっても面白いのだが、通り一遍の意味を知りたいときにはすごく使いにくいのだ。はっきり言って、役に立たないことも多い。それって、辞書という実用書としてどうよ、と。
だから、勉強に使うなら、「新明解」はお薦めしない。面白い本が読みたい人ならば、良いけど。今思うと、あの学校の生徒たちはちょっと可哀相だったかも。


さてさて、話を戻します。

縦の序列を昇っていくための文章ではなくて。多様な横のつながりを楽しむための文章を書く場としてのブログ

この表現が久々に登場。この「縦」がよくわからない。「縦の序列を昇っていくための文章」って何のこと?上申書とかその類?それって既に自由記述でさえないような。何のことだろう?対になる概念が明確になっていないのってとても残念。ブログでつながって楽しむって、そんなの当たり前(既出?使い古された表現?)、じゃない?

という指摘があったのだけれど、僕の考えでは、「縦の序列を昇っていくための文章」というのは、「文章の上手な人(作家とか記者とかアルファブロガーとか、文章に関するある種の権威を持っている人)に近づくために研鑚(修行)する過程で、書かれる文章」ということではないだろうか。「あるお手本があって、それに近づけることを目指している文章」と言い換えることもできるかもしれない。
それに対して、「多様な横のつながりを楽しむための文章を書く」というのは、「必ずしも文章は上手じゃなくてもいい。そのかわり、ブログを通して、何か新しい発見やアイデアにつながるような文章を書く」ということではないだろうか。
「新しい発見やアイデア」は何も特別なことである必要はない。「ブログ文章術」で言えばこの間の課題に対するコメントやトラックバックやその他の記事などには、それが大喜利であれ何であれ、とても多くの発見やアイデアがあった。それが楽しいし、そこに価値がある、ということではないかと。
あくまでも、僕個人の考えなので、米光さんの考えとは違うかもしれないけれども。それに「そんなの楽しくないよ」という人もいるだろうし。それを否定する気はさらさらない。


とはいえ、僕自身の文章に「発見やアイデア」があるかどうかは自信ありませんが(爆)。それは、読む人が判断してください。