「いじめ自殺」に対する同情の声が、僕には無責任に聞こえるのはなぜか。

福岡県で起きた中学2年生の男子生徒の自殺に絡んで、彼が元担任の教師から暴言を吐かれ、それがきっかけになって彼に対するいじめが始まったとする報道が、テレビなどのニュースなどで繰り返し流されています。そこから耳に入ってくるのは、自殺した生徒やその遺族の方々への同情の声、そして、いじめのきっかけになったとされる教師へのバッシング、学校側の対応に対する非難の声、などなど。
僕は、これらの報道に触れると、言いようのない違和感を覚えてしまうのですが、それは何故なのかについて、少し掘り下げてみたいと思います。



今回の件には直接関係ありませんが、少し前にはてブ界隈でもかなり話題になった記事がありました。→『痛いニュース(ノ∀`):首切少年Aが弁護士になって悠々自適。ヨットサイトも運営。』
昭和44(1969)年に神奈川県で、高校1年生の少年が同級生を殺害したという事件が起き、その少年が後に弁護士になっていたという事実が、最近出版された本によって明らかにされました。その間の経緯に対して非難の声が集中した、ということのようです。それは、まぁ、いい。ほんとは良くないけど、世間とはそういうものだよな、と思います。
ところで、この記事に関連したエントリを見ていくうちに、次のようなページに目がとまりました。→『高校生首切り殺人事件 精神鑑定書』
これは、その事件を起こした少年の精神鑑定書の一部を抜粋したものだそうです。これを読んで、僕はちょっと混乱してしまいました。
これって、かつての俺のことじゃないか?と。
いや、僕は人を殺したことはありませんから、自分の過去とぴったり一致することなんてありえないのですが、この鑑定書から読み取れる少年の心の動きには、少なからず身に覚えがあるな、一歩間違えれば僕もこのように精神鑑定を受ける立場になっていたかもしれないな、そんなふうに感じてしまいました。
もちろん、そのことによって、少年の行為が正当化されるとは思わないし、その後の人生で彼が辿った経緯がどんなものだったのかは、あまり関係がないと思います。
ところで、この事件に関して、このように説明しているサイトがありました。以下引用↓

被害者は少年より無口だったが、170センチとやや大柄で、他人の欠点を付く毒舌で笑いをとるのを得意にしていて、少年をよくからかいの対象として同級生の笑いをとっていたが、それは殺人に至るまでのいじめと呼べるようなものではないとの周囲は見解だった。
『誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ 昭和44年』より

「殺人に至るまでのいじめと呼べるようなものではない」? そんなことは本人にしか分からないことじゃないんでしょうか。


いじめは、いじめにあったその本人でなければ、どのくらい深刻なのか絶対に分かりません。


仮に、この少年が「殺人」ではなく、「自殺」という選択をしていたら、「自殺に至るまでのいじめと呼べるようなものではない」とでも言えるのでしょうか?
そんなことは誰にも言えませんよね。それとも、殺人と自殺ではその深刻度が違うとでも? そんな馬鹿な。
そもそも、他人が「どのくらい深刻ないじめなのか」について、判断できるはずがないんです。だから、この問題は難しいのです。



今回の福岡で起きてしまった中学2年生の自殺について、その遺書からいじめがあったことが分かったようです。
『自殺当日に何度も「死ぬ」、級友取り合わず…福岡 : 週間ニュース : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』という記事に、遺族が公開した主な遺書の全文が載っています。以下引用↓

「お母さんお父さんこんなだめ息子でごめん 今までありがとう。いじめられて、もういきていけない。」(わら半紙の裏に水色の蛍光ペンで。自宅の倉庫で見つかった)
「遺言 お金はすべて学校に寄付します。うざい奴等はとりつきます。さよならいじめが原因です。いたって本気です。さようなら」(級友のスケッチブックに)
「遺言 さようなら 僕が死んだら僕の貯金は学級にあげます。」(通学かばんの中に)

ひょっとしたら、他にも遺されたものがあるかもしれませんが。
僕は、これを読んだときにも、「あぁ、同じだな、俺と」と感じてしまった。
結局、僕が今まで、殺人も自殺もしないでこれたのは、運が良かったからとしか思えないのです。何かが掛け違っていたら、「あちら側」に行ってしまっていた可能性だって十分あるんです。


自殺と殺人は、実は紙一重だと思いませんか? 特に原因が「いじめ」であるような場合。
いじめられた本人には、いじめられているさなかに、それを解消する手立てなんて考える余裕がない、というのがほとんどだと思います。しかし、そのいじめの深刻さは他人には、けっして分かりません。
そんなときに、いじめてくる相手を「排除」してしまえばいじめがなくなる、と考えることは自然なことではないでしょうか? もちろん、それを実行してしまえば、世間やマスコミから「生命の重さを理解できない子どもの短絡的な犯行」などと呼ばれてしまうわけですが。
でも、相手が多数だったら? 自分の力ではそれらを排除できない場合は?
ここに効率よく、自分以外の人間を“全て”排除できる方法があります。それが、自殺です。
自殺と殺人は、いじめを解消する手段のいわばコインの裏表の関係になっていて、見方を変えれば、それらは同じものです。違うのは、殺人がその特定の相手だけを殺すのに対し、自殺は「自分以外の者全て」を殺している、という点です。
だから、僕やあなたは、自殺者が出るたびに、何度も、殺されていることになります。だって、自殺した人から見た「自分以外の者全て」の中には、僕もあなたも含まれているんですから。
逆に言えば、「彼」を死に追いやった人たちには、僕も、あなたも、含まれているんです。


だから、「自分は人をいじめたことなんてない。人を自殺に追いやるとは、なんてひどい人間だ。おれたちが懲らしめてやる。」とでも言いたげな、テレビを始めとするマスコミの報道を見ていると、反吐が出そうになるんですよ。何様なんだよ、一体、と。


もし、今自殺を考えている人がいたら、僕に言えることはあまりありません。目の前に居たら、「死ぬな」「死なないで」と言えるかもしれないけれど。
それでも、無理やり何か言葉をひねり出そうとするなら、「ね、世間ってくだらないでしょう。これが、あなたをいじめている連中の正体なんですよ。こんな世の中のために、命を絶ったり誰かを殺したりするなんて、バカバカしいと思いませんか?」とでも言うしかないような気がします。