あのバカは荒野をめざす

昨日、テレビでボクシングのWBA世界ライトフライ級王座決定戦「亀田興毅vs.ファン・ランダエタ戦」を観戦しました。
試合が終了した瞬間には、「僅差でランダエタ選手の勝利」だと思ったのですが、判定の結果は「僅差で亀田選手の勝利」というものでした。この判定結果については、僕には特に言うことはありません。自分の見方がプロの審判の見方と違っていたからといって、「おかしい」と言うほどの自信はない、というか、僕は単なる素人ファンにしか過ぎないので。(追記:つーか、この程度のホーム有利の「疑惑判定」なんて、今までいくらでもありましたよね。彼の場合は、試合前からあまりにも注目されすぎだったのが、より不幸だったのかな、と。)
ただ、この結果が出たことによって、WEB上に「不可解」とか「疑惑」とか「八百長」とか「金でチャンピオンベルトを買った」などの言葉(追記:あー、1個忘れてた。興行関係には付き物の、「暴力団がらみ」ってのもありますね。)が飛び交うだろうとか、YOUTUBEに第1ラウンドの亀田選手がダウンを奪われたシーンが繰り返しアップされるだろう(そして、海外のボクシングファンからも反感を買ってしまうだろう)とか、2ちゃんねるで「疑惑の判定検証スレ」や「亀田選手糾弾スレ」のようなところが盛り上がるだろう(そして、すぐにまとめサイトが作られて、はてブ人気エントリー化するだろう)とか、そういうことが容易に想像できてしまいました。僕は、これらのことを何一つ自分の目で(まだ)確かめていませんが、何か明らかに間違っているところがあるでしょうか。
とりあえず、他の情報を目にする前に、昨日の試合を見た自分の「今の時点」での感想を書いておこうと思います。

  • 亀田選手のガードを高く上げて腰を低く構えるファイティングスタイルは、誰もがスマートなスタイルを求める今の日本のボクシング界にあって、驚異的なまでに泥臭く見える。そして、僕はこの泥臭さは嫌いではない。
  • ただ、今までこのスタイルのおかげ(あと、実力差のある選手とばかり対戦していたおかげ?)もあって、顔面へのパンチをほとんどもらわずに済んでいたのが、実力の“拮抗”している相手にはそういうわけにもいかなかった。顔面へのパンチには、(第1ラウンドのダウンのように)“脆さ”も垣間見えた。(追記:おっと、これも書き忘れ。やっぱりライトフライ級はつらそうだった。本来、スーパーフライ級でもおかしくないんだから。)
  • しかし、ダウンを取られた後に、このまま崩れていってもおかしくなかったのを、なんとか持ち直したのは立派。その後は、お互いにいいパンチを当てながらの、緊迫した試合内容になった。
  • 採点上は、どのラウンドをどちらが取ったのかが、微妙と思われるラウンドが幾つかあった。微妙というのは、ランダエタ選手が取ったかもしれないが、亀田選手が取ったとしてもおかしくはない(もしくはその逆)、ということ。
  • 試合終盤には、亀田選手の足が止まってしまう場面が何度も見られたが、果敢にラッシュを仕掛けに行く姿勢(スタミナ)は評価できると思う。今まで、何度も終盤にパンチが出せなくなる日本人選手の試合を見ているだけに、この点は個人的にポイントが高い。

まぁ、そんな感じです。
どちらかというと、亀田選手を擁護するようなことばかり書いてあるように見えるかもしれませんが、僕個人としては上にも書いたように、「僅差でランダエタ選手の勝利」だと思ってました。


それよりも、僕が判定結果を知って思ったのは、亀田選手は、世界王者になったことによって、これから茨の道を歩んでいくんだな、ということ。
これから先の人生において、「世界王者」という肩書きは一生ついて回ります。そして、それにふさわしい選手であることを、彼自身が証明していかなくてはなりません。テレビ局やスポンサーからのプレッシャーはこれからもっと強まるだろうし、ファンや世間の見る目も厳しくなるでしょう。彼自身が掲げる『3階級制覇』を成し遂げるまで、その重圧から解放されることはない。負けるか、引退する以外は。
今後、どこかの局面で彼自身「いっそ負けてしまいたい」と思う瞬間があるかもしれません。でも、それは許されないのです。それが世界チャンピオンである、ということだし、そういう立場になることを彼自身が望んだ結果だからです。
僕は、亀田選手という人物にこれまであまり関心がありませんでしたが、昨日の試合を見たことによって、かえって今後を注目したいと思うようになりました。意地の悪い言い方をすれば、“真の”世界チャンピオンとして認められるようになるのか、タレントもどきの道化師で終わるのか、その先が見たい。
行く手が荒野であることを知ってか知らずか、ともかく進むことしかできない「バカ」*1からは、あらゆる意味で目が離せません。

*1:良い意味で使ってます。

僕は善意の人なんだろうか?

どうなんだろう?
なんか、そう思われたいかのような記事を、今まで何度も書いてきたような気がする。自分が善良な人間である、ということ。そして、凡庸な人間である、ということ。自分の醜悪な部分を表に出したくないと思っている、ということ。そいうことが隠しきれていないぐらい凡庸な人間である、ということ。
ブログという場が、自分のそういう部分に向き合うべき場であるのかどうかは、よく分かりません。(それは、書き手がそれぞれに判断するべきことなんでしょう。)
でも、向き合った方が、面白いブログになるような気はします。というか、「表現」を標榜するならば、自分に向き合わなければ何も生み出せないものなんだ、と思います。
思いますが、それがしんどいのも確かで。
『弁償するとき目が光る :罪なき者の罪深さはどうにもならないからいっそ死んでくれわたしのために』
↑こちらの記事を読んでから、ぐるぐる頭の中にいろんな考えが回っていて、全然まとまっていないのですが、もう少し書いてみます。
エイズの末期だという元風俗嬢のブログ」は僕も見ました。そして、あぁ、これには僕は何も言うことができないな、と思いました。そして、そちらのコメント欄を読みかけて、やめてしまいました。そこにあるはずの悪意や善意の書き込みに、僕は耐えられないだろう、と感じたからです、たぶん。
そこにある憎悪や嫌悪や同情や憐れみなど、それらは全て、僕の心の中にも確実に存在しているものです、たぶん。というか、僕の中に存在する、僕が見たくないと思う様々な感情が、そこに剥き出しになっている。それを読むことによって、いやでもそれに向き合わなくてはならなくなる。醜悪な自分自身の「影」と向き合わなくてはならなくなる。それはいやだ。だから、逃げ出した。そういうことなんでしょう。
上記のリンク先の記事を書いたyukiさんはとても優しい人なんだと思います。彼女は「呪う」と書いているけれど、呪われることによって救われている自分というものを、僕は読みながら感じてしまった。そして、そんな風にして救いを感じてしまう僕自身の醜悪さが露わになってしまって、結果的に僕は自分自身に向き合うはめになりました。だから、yukiさんは優しい、と思うのです。そんなことを意図して書かれたものではないとは思うけれど。
そんなことを言いたくなって、この文章を書きました。