やっぱり「萌え」って難しい

昨日の日記では、僕としてはかなり思い切ったことを書いたのですが、読む人にはどういう風に思われてるんでしょうか?
僕は、「萌え」というものが「人がキャラクターに対して強い好意を持つこと」であるということを踏まえて、ああいうことを書いたわけですが、その後で「うーん、これはやっぱり微妙な問題をはらんでいるよなぁ」ということを感じています。
ブログに書かれた文章から、それを書いた人をあるキャラクターとして捉えて(表現は再解釈・再構築・行間を読むなど何でもいいのですが)それに好意を抱く、というプロセス自体は「萌え」と相似形なのですが、決定的に違うのは相手はやっぱり「生身の人間」であって「キャラクター」ではない、ということですね。
何が言いたいのかというと、僕が他の人の文章を読んで、腹の中で何を思ったり感じたりしてもいいけれど、それをああいう形で公に出すということとは、それは別問題でしょうよ、ということです。ちょっとそういうことを忘れかけていたかもしれません。*1
しかもコメントやトラックバック機能を備えたブログという「相互にコミュニケーションが『可能』な場」で、そういった「萌え」という言葉を前面に出すということは、(言及された本人かどうかに関わらず)読み手に不快感を強いる可能性があります。その辺のことは分かっていたつもりなので、そのようにリアクションされたら、昨日の記事全体を削除するつもりではいました。削除したからと言って許されるとも思ってませんが。


ゲームやアニメのキャラクターに対して使うのならば「萌える」という言葉は適切なんでしょうが、実在する人に対して使うのは、まだまだリスキーなんでしょうね。プラスの方向に受け取ってくれるとは限らないという意味で。
僕個人は、書いた人と書かれた文章は別のものだ(切れている)、と認識していますが、全ての人がそう思っているわけではない。書いた自分と文章は同じものだ(つながっている)と考えている人もいるだろうと。言い換えると、僕は「文章」を起点にして、書いた(生身の)人の人格とは直接的な関係がないキャラクターを想像(捏造)していると認識しているけれども、書いた人(あるいはそれ以外の読み手)から見れば「自分(書き手)自身がキャラクター化されている」と捉えたとしても、不思議でも何でもない、ということです。
その辺の配慮が昨日の記事には欠けていたかなぁ、と反省しています。


好意というのは基本的にはポジティヴなものですが、だからと言って常にそれが受け入れられるものではないですよね。タレントさんなどの「萌えられる」ことを職業にしている人はともかく、好意を寄せられることを迷惑に思う人・場合ってのは、やっぱりあるわけで。
とはいえ、自分が持っている好意をとにかく伝えようと思ったとき、それ以外に適切な言葉がない場合はやっぱり「萌え」って言っちゃうんだろうなぁ。
ああ、(タイトルに戻る。)


…という、「俺はネットストーカーじゃないよぉ」宣言でした。(←バカ)*2

*1:ただ、昨日の日記はあえてやってはいけないかもしれないことをやる、ということを半分目的にしていたので、たとえ忘れていなくても、ああいうふうにやっただろうとは思いますが。

*2:ネタっぽくする気はなかったので、最後の文は投稿後に削除。