世の中の「いかなる理由があったとしても、違法行為には許される余地はない」という空気は、俺のせいなんです、という話。

Twitterのまとめネタです。すいません。手抜きで。
今回は、主に俺の思い出話です。

昔、私立高校の非常勤講師時代に、梁石日の『タクシードライバー日記』(引用注:正しくは『タクシードライバー日誌』)の一部を読ませて感想を書かせるという授業をやらされたのだが、内心「無理だろ」と思ってた。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508195478

俺、大学卒業が大体決まった時点で、就職先が決まってなかったんですよ。当時は就職氷河期と言われてた時代のど真ん中だったんですが、俺に関してはそういうのは関係なく、真剣に就職活動してなかったからなんですけど。ただまぁ、なんとなくツテがあって某私立高校の非常勤講師に収まったわけです。今思うと、その時点で既にダメなんですが。
それで、受け持ちのクラスで授業をやるときに、同じ担当科目の教師同士で、各学年で次はどの教材を使うか打ち合わせするんですけど、あるとき梁石日の『タクシードライバー日誌』から抜粋された文章を使うことになったんですね。これを読ませて生徒に感想を書かせましょう、と。ま、下っ端だった俺は、それにただ「はい分かりました」と言って従うだけだったんですが。
それまで俺は梁石日氏の名前は知ってましたが、作品はちゃんと読んだことがありませんでした。梁氏の著作が原作の映画『月はどっちに出ている』は見てましたけど。それから教材に使うその文章を実際に読んでみての感想が、上記の「無理だろ」だったわけです。ま、分かる子は分かるだろうけど、と。これは、一般的に梁氏の作品が高校生には難しいだろうと思っていたわけではなくて、その学校の生徒の大まかな印象から、もうちょっと違った傾向のものの方がいいのに、と感じたのです。
で、実際に読ませてみた結果、こう。↓

語り手が、生活の糧を手に入れる為に交通法規を時にはみ出さざるを得ない、と書くと、案の定、生徒の反応は「理由はどうあれ、違法行為は許されない」みたいなもんだった。10年くらい前の話。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508204852

勿論、全員の感想がこうだったというわけではありません。ただ、このような感想がかなり多かった(多分半分以上)という記憶があります。
でも、これは高校生としてはそれほどおかしな反応ではなかった、とも思います。
問題は、俺の方。

当時は大学出たての若造で、生徒達に「いや、違うんだよ、これは」と教えることが出来なかった。というか、正直教師なんて早く辞めたくて仕方がなかった。今考えると、ほとんど鬱状態だった。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508221113

ということで、梁氏の著作云々の問題ではなくて、俺が力量不足だったために、生徒たちの文章理解を深めさせることが出来なかったのですね。
今なら、

んー、例えばタクシードライバーの場合、ちょっとくらい交通違反しないとやってらんない商売なんだとしたら、規則を破った側「だけ」が悪いんじゃなくて、そういう風になってる世の中「も」変なんじゃないかな、とかね、そういうことを考えさせたい。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508306619

とか、

そもそも、そのルールは何の為にあるの?とか。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508308851

とか、

そのルールは必要だ、という結論になったとして、じゃー、ルールを破るドライバーが悪いだけでいいのか。ルールを破ることを求める客は? その客の要求を許容する世間は? そもそもなんでそんなに急いでんの?とかとか。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508317915

とか、そういうことも考えたりしますけど、当時は無理でした。まー、今でも実際のところできるかどうか分かりませんが。
そして、

一年後に、めでたく退職した。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508224072

というわけで、ある意味、逃げちゃった、と。その後はフリーターやりながらバンドやったり、いろいろありましたが、縁があって隙間産業の片隅に潜り込むことが出来ました。
講師時代のことは、正直あんまり思い出したくないのですが、最近世間の「空気」について考えてるうちに、その頃のことが、ふと思い浮かんだのですね。

そのうち、世の中が「いかなる理由があったとしても、違法行為は許される余地はない」という空気になった。その責任の一端は、俺にある

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508228665

そういうことです。

潔癖症の世の中が胡散臭いと考えてる時に、ふと、あの時の生徒達の感想が思い浮かんだ。あの時の生徒達も今は27・8才くらいか。本当にあの時の生徒には申し訳ないと思う。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508238928

結局、生徒にとっては教師の力量なんて関係ないんですよね。そして、俺が受け持った生徒に対しては直接的な責任があるので、ただただ申し訳なく思うだけなんですが。今さら何をどうすることも出来ないけれど。
もちろん、当時の生徒に対して俺が力量不足だったことと、世の中の空気が変わってきたことに直接的な因果関係があるとは言えないでしょうが、それがなかったとしても、大人としての責任というのはあるんだろうとも思います。
「いかなる理由があったとしても、違法行為は許される余地はない」というのは、裏返せば「ルールさえ守っていればよい」ということになるわけで、ある意味楽なんですよね、考えなくて済むから。
こどもがそのように考えると言うのは、楽な方に流されているというようにも言えるわけですが、それは、大人も同じように考えずに済むならその方がいいと考えているのを、こどもが読み取った結果なんだと俺は思うんですよ。
だったら、教師としての俺はもう終わってしまっているので、大人として(あるいは親として)、やるべきことをやろう、と。
「世の中の空気を変えよう」なんて大それたことは言えないけれど、「潔癖症もいいけど、行き過ぎじゃない? それっておかしくない?」と考えてる大人もいる、ということぐらいはね、示していきたいです。実生活で。
最後に。↓

今の自分が教師なら、全然違ったことが出来たかもしれない、とはちょっと思う。ま、そのうちそんな機会がないとも限らない。世間が社会人の教師を必要とした時とかね。

http://twitter.com/nijuusannmiri/status/1508279521

そうなったとしても、「お前なんていらね」と言われる可能性大ですけどね。