「すべての人間は関節的な人殺しだ」は、やっぱり違うんじゃないのかな。「全ての人間は人殺しになりうる」ということじゃないだろうか。

こちらを読んで。批判したいとか、そういうことじゃないんですけど。→http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070425/1177448120
もっと、マイルドな言い方に直して、「全ての人間は、他の人間の命を奪うことをする(あるいは、した)可能性を持つ」と言ってもいいですけど。それに、これだったら「直接的」「間接的」と分ける必要もないのではないでしょうか。そして、その人が(あるいは自分が)人を殺したと言えるかどうかは、「個別に・具体的に・詳細に」検討すればいい、と思います。
単に、言葉遣いの問題だけかもしれませんが。それに、やっぱり「すべて」と言うのは反発を招きそうだしな…。
でも、「可能性を持つ」であれば、否定できない人の方が多いような気はします。もちろん、それは「可能性を持つ」ということ以上の意味は持たない、ということが条件になるとは思いますが。


つまり、「人を殺す(殺した)可能性がある」ということと、「人を殺す(殺した)」ということは、同じようでいて、大きな違いがある、ということかなぁ。全然的外れかもしれませんが。
ただ、このような前提を持つことによって、何らかの(刑法上のものであれ、それ以外のものであれ)罪を犯した人や罪を見過ごした人に対する視線が変わるのなら、それはそれで意味があるのかもしれないですね。えーと、犯罪者を許せとか、罰を軽くしろとか、そういう話じゃありませんからね。