テレビは怖い。テレビを消費する視聴者が怖い。

最近、ある殺人事件の被害者の遺族の方を、よくテレビで見かける。ニュース番組やワイドショーで流れる映像を見ながら、僕はテレビというマスメディアの怖さについて考えていた。


不謹慎を承知の上で書くが、この遺族の方はとてもテレビ映えする。被写体として、いろんな意味で魅力的である。被害者の遺族という属性だけでなく、話す姿からは強い意志が感じられるし、その言葉は明瞭で主張もはっきりと伝わってくる。
言い換えると、とても分かりやすいし、感情移入しやすいキャラクターであると思う。そして、この方の抱えてしまった苦悩を思えば*1、間違っても彼を批判することなど出来ないし、犯人に対して同情の気持ちはまったく湧いてこない。
ある意味で、テレビなどでは扱いやすい人物になってしまっていると思う。話題性も抜群だし。


で、僕が「怖い」と言っているのは、その遺族の方でさえも「消費」してしまっているという現実のことである。テレビは遺族を、視聴者である僕らに被写体として提供している。僕らはそれを見る(享受する)ことによって、消費している。そして、僕らはそのことに気付いていない。もしくは、疑問を感じないでいる。
感情移入はするけれど、遺族の悲しみついては思いを馳せるけれども、それを消費している構造には無頓着である。何故だか分からないけれど、テレビには見る人をそのように仕向ける魔力のようなものがある。
それが怖い。
いちばん怖いのは、自分自身なのかもしれないが。

*1:僕は、正直なところ、この方の気持ちは分からない。ただ、想像するだけだ。そして、想像することは大事だけれど、その限界もわきまえておきたい。自分の理解しえないことに過剰に感情移入するのは、僕としては傲慢なことだと思う。