吉田秋生『海街diary』、6巻までの感想

 半年ぶりの更新ですか。この4月に転職してから、Twitterでもツイート数が激減してますが、ちゃんと生きてますよ、と。

 先日、是枝裕和監督の映画『海街diary』を観てきました。それで、自分なりにいろいろ思うところもあって、原作の漫画をあらためて読み直してみたんですね。

 で、その感想をちょこっとTwitterでも書いたんですが、これはきちんとブログにも書かなきゃいけないかなー、と。その感想ツイートも、何人かの人にRTされたり、ふぁぼられたりして、それで背中を押されたような気もしたし。

 

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃 (flowers コミックス)

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃 (flowers コミックス)

 

 

 俺は、吉田秋生のいい読者では決してなく、『BANANA FISH』は大学生の時に一応読んだな、あとは『吉祥天女』と『河よりも長くゆるやかに』が奥さんの蔵書にあったので、それを読んだ(そもそも『海街』も奥さんの蔵書でした)というくらいなんですが、『海街diary』って、ひょっとしたら吉田秋生の最高傑作になってもおかしくないんじゃないか、などと思っています。

 

 作品の舞台は鎌倉。そこに住む、看護師の長女・幸、信用金庫に勤める次女・佳乃、スポーツ用品店で働く三女・千佳の三姉妹のもとに、15年前に離婚によって生別した父の訃報が届くところから物語は始まります。ちなみに母の方はその後、別の男性と再婚し家を出ており、姉妹は祖母に育てられたという。(その祖母も数年前に亡くなっている。)両親の離婚の原因は父の不倫であり、その父は、不倫相手の女性と再婚し、一女(すず)をもうけた。しかし、すずの母は病没。父は三度目の結婚をしていた。その父の葬儀のために、姉妹は山形へ行き、そこでいろいろあって、中学生のすずを鎌倉の家に迎え入れることになる…、というのが、第1話のだいたいのあらすじ。この第1話(の途中まで)は、ネット上でも読めますね。さっき気付いた。

→ 「海街diary 1」 | flowers コミックス | 小学館

 

 現在、6巻まで刊行されていますが、まだ完結していません。なので、この作品の評価というか、この作品が何を描こうとしているのかをここで言うことはできないんですが、それでも、ここまでで何が描かれてきたかを言うことはできるし、そこから何を読み取れるのかを論じることもできるだろうと思います。

 

 Twitterでも書きましたが、これは「愛と死」の物語なんだろうと俺は思っています。そして、そこからどうしても逃れられないものとして、登場人物の口を借りて、「人の生き死ににお金の話はつきものなの」ということも語られています。人の死には「お金の話はつきもの」ということは、既に第1話から正面切って描かれており、結果的にそのことが、すずの鎌倉行きにつながったようにも見えます。なぜ「人の生き死ににお金の話はつきもの」なのか、その背景には「家」というものがあります。

 「家」とは何なのか。それは日本においては財(資産と言ってもいいかもしれませんが)を管理する法人として機能してきたということと、近代以降に日本社会が重視するようになってしまった「血」の問題の二層があります。法人であるからこそ、家の存続が関心事になるし、さらにそれが血によって結ばれた「家族」によって運営されるということを重視するという現実があるからこそ、逆説的に血の繋がらない(または繋がりが薄い)家族の価値というものが生まれてしまうわけです。血が繋がっていれば当然に家族であるけれど(本当はちっとも当然ではないわけですが)、その繋がりが弱くても家族たりうるんだ、というように。

 このような「家」に人は縛られ、それゆえに「愛」が阻まれてしまうことが起きます。それは、三姉妹の母とその母である祖母との関係でもそうだし、さらにすずの母とその母(すずから見た母方の祖母)との関係でもそうで、お互いが生きている間には和解が不可能だったという事実からもそれが伺えます。そのあたりのディテールは未読の方は是非実際に読んで確認してほしいところです。

 「愛」というのは、男女や夫婦間の愛情(恋愛・性愛)にとどまらず、親子や兄弟姉妹のそれも含むし、たぶん友情も含んでいいと思います。愛は、性差や年齢差やその他の様々な障害を易々と乗り越えてしまう反面、乗り越えたことによってまた失うものも大きく、「家」というものはその失われるものの一つの象徴なのかもしれません。すずを含めた四姉妹の父の人生は、その「愛」によって、この物語に登場する様々な「家」を翻弄し、結果として結び付けてしまった、とも言えます。

 恋愛ということで言うなら、長女・幸や二女・佳乃の恋愛事情の変遷というのも興味深く、そこだけ取り出しても論じる価値が十分あるのですが、今後の展開によって大きくその意味が左右されそうな予感もあり、ここで触れるのはやめておきます。

 財を管理する法人としての家に拘りますが、佳乃の恋人として登場する朋章や、海猫食堂の二ノ宮さんのエピソードも、「家」の持つそうした側面が大きく関わっています。

 

 ところで、三姉妹にすずが加わることによって、この作品は「四姉妹の物語」になるわけですが、末妹であるすずが、同時に長女として育ったということで、そう単純ではありません。これが、幸とすずの共通点が浮かび上がってくる仕掛けにもなっています。(この辺りの構造は、是枝さんの映画でも明確に意識されています。)

 つまり、幸もすずも長女(長子)であることで、否も応もなく「家」の問題に直面せざるを得なくなったということです。そこで思い出すのは例の『アナと雪の女王』で、あれもエルサという長女の物語だったんですよね。しかも、王家という「法人としての家」の究極のような世界。そこで親から受け継いだ正も負も含めた遺産が姉妹にもたらした悲劇を、愛によって乗り越える、というのが、『アナ雪』のテーマでした。しかし、『海街』では、そう簡単に乗り越えさせてはくれないように見えます。別の言い方をすれば、そこまでファンタジーの世界の話ではありませんよ、ということ。

 

 では、愛は家によって阻まれたままなのでしょうか。

 そこでさらに俺が思うのは、この作品の中で繰り返し描かれる「近しい人の死」というモチーフのことです。「家」のしがらみによって引き裂かれた人々が、「死」によって再び結びつくという「再生」の物語が何度も語られているのです。三姉妹と父の「和解」や、すずの母と祖母の関係などもそれに当たります。これらはその当事者の死がなければ、再び交差することはなかったものだったんじゃないでしょうか。

 俺はTwitterで「「愛」は、「家」によって阻まれ、「死」によって再生する、のだろうか」なんて書いていますが、それはあまりにも悲劇的なような気がする反面、同時にあまりにもロマンチックな言い方だな、とも思います。そして、これは悲劇的ではあるけれども、それだけではなく、新たな結びつきを登場人物たちにもたらしてもいるわけです。死というものが、ネガティブなものとしてだけあるのではなく、生きている者にある種の恩恵を与えてくれているという面も持っている、ということです。

 それにしても、この作品に出てくるすずの同級生・サッカーチーム仲間の中学生たちは、ちょっとその年齢に不釣り合いなほど「近しい人の死」を経験してきています。さらに癌というモチーフも見逃せません。それらは単に物語を転がすための小道具としてあるのではなく、作者がある覚悟を持って選び取ったテーマなんでしょう。

 

 ここまで「家」には二層がある、ということを書いてきましたが、この作品で描かれる家には、さらに別の意味もあります。それは、姉妹が暮らす物理的な意味での鎌倉の「家」と、精神的な意味も含めた「居場所」としての「家」です。前者は三姉妹の母が「思いきって処分したら」と口走ったときに幸が猛反発するエピソードで、後者は進路に悩むすずのエピソードで特にその意味が強調されますが、この作品の通奏低音として流れているテーマの一つと言えると思います。

 この作品を「寄せ集めの疑似家族が『本当の家族』になる物語」として読んでもいいとは思いますが、俺には多様な意味での「家」を描き、「死」を通して「愛」を浮かび上がらせる物語に読めるんだよね、という話でした。

 

海街diary 2 真昼の月 (flowers コミックス)

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海街diary 3 陽のあたる坂道 (flowers コミックス)

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海街diary 5 群青 (flowers コミックス)
 

 

 

 

海街diary オリジナルサウンドトラック

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