死刑についてのひとりごと。

死刑制度に関連する話題で、死刑の執行が刑務官にとって精神的負担になっているというような話題があると、
「他の死刑囚に刑を執行させればいいんじゃないの」
という意見を見かけることがあって、最近も某ブログのコメント欄にそういうことを書いてる人がいたのだけれど、それってどうなんだろう。
どうなんだろうというのは、死刑囚の人というのは、そのほとんどは殺人で死刑になっているわけで。つまり、死刑囚に死刑の執行をさせるということは、非合法に他人の命を奪った人間に、今度は合法的に(制度の一環として)他人の命を奪わせるということなんでしょ。
それって、僕にはどうしようもなく悪趣味に思えるのだが。だから、そういう意見に対しては、賛成しない。感情的に。情緒的に。
それだったら、いっそ森巣博氏が言う「一回の死刑執行につき、100人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする」(これは国民の義務で拒否できない)という制度の方がよほどいいように思う。その方が、この国が死刑を存置しているのは、この国を構成する国民(有権者)の承認があるからである、ということがより明確になるだろうし。
法務大臣を「死に神」呼ばわりするのは出来の悪い冗談だけれど、この冗談が冗談でないとしたら、僕も「死に神」の一人ということになる。論理的にはそういうことになる。
それはそれで(死に神と呼ばれるのは)構わないのだけれど、というか、死刑存置を主張する人に対して、死刑廃止派の人が「実際の刑の執行は他人任せで、自らの手を汚そうとしないのは偽善ではないか」みたいな批判があったとして、森巣氏が言うような死刑執行官制度が実現したら、この批判は当たらないことになる。めでたく、僕もあなたも名実ともに死刑執行の当事者(「死に神」は適当な言い方でないとすれば)になれる。
ただ、ここで僕が思うのは、「自分の手を汚すのであれば、死刑を執行していい」というような考え方は、殺人を犯した人が時折口にする「死刑になりたくて、人を殺した」という理屈とどう違うのだろうか、ということだ。
死刑になる覚悟があれば人を殺していい? そんなバカな理屈はない。いや、理屈は分からないけれど、僕はそういう言い分を拒否したい。であれば、「自分の手を汚すのであれば、死刑を執行していい」というのもまた、おかしいということになるのではないか。
だが、現実に制度として死刑が存在する以上、実際に刑を執行するのが誰であろうと、それがどんな論理に基づくものであったとしても、僕の手は、既に汚れているのだ。
じゃあ、人を殺した人間に相応しい刑罰とはなんだ。もしくは、人を殺しておいてその人間がのうのうと(塀の中で)生きているのっておかしくないか。そういう問いには、うまく答えられない。終身刑というものが、現行の死刑に取って代わるものなのかどうかも、そうであればいいとは思いつつ、そこまで自信満々というわけでもない。だが、殺人犯が全て死刑になっているわけでもないし、その人たちが「のうのうと」生きているのかどうかは僕にはよく分からないよ、とも思う。いずれにせよ、この問題は他にも数多くの論点があるし、簡単には片付けられない。
ただ、個別の事件が現行法の枠内で死刑に相当するのかどうか、ということと、死刑制度そのものの是非を問うことは別の問題ではある。当事者にとっては、どちらでも同じことではあるけれど。