「憎しみ」についてのひとりごと

「憎しみ」というのは厄介な感情だと思う。人間の自然な感情の発露ではあるけれど。
人間には、内心の自由というものがあって、それはどんな規制もかいくぐる。たとえどんなに他人の心を規制しようとしたところで、そんなことは実質的にできない。無意味だ。
もちろん、洗脳とかマインドコントロールというものはあるけれど、ここで問題にしているのはそういうことではない。
人間には、人を憎む自由がある。
あるいは、自分自身でもどうにもならない感情の発露として、人を憎んでしまう。
人を、と書いたけれど、具体的な誰かに限らず、漠然とした集団なり社会なり世間を憎むこともある。
でも、憎しみは、その感情を抱えた人を消耗させる。
できれば、憎しみなんて捨ててしまいたい。だけど、どうにもならない、どうしようもないときもある。
時に人は、憎しみを目的化してしまうことがある、憎しみの深さ大きさのため、それを自分自身と同一化してしまうことがある。自分自身の存在意義を、憎しみの中にしか見い出せなくなってしまうことがある。そのとき、人は憎しみを失うことを恐れるようになる。憎しみを自分の中から消してしまうと、自分自身も消えてしまうような感覚に捕らわれてしまう。
それは、つらいことだ。
憎しみは新たな憎しみを生む。自分の憎しみは、他人の憎しみの引き金にもなりうる。


差別は無知から来る不安や恐怖によって生まれる。ヘイトスピーチは差別する相手を知ったうえで、その無知を利用しようとする。


憎むな、とは言えない。
言えるのは、憎むのは疲れるよ、ということだけ。
もし、憎しみを乗り越えたり、無かったことにできそうなときは、そんなときは滅多に来ないから、捕まえて放さないことだ。憎しみに呑み込まれる前に。

絶望ってのは、現状否定だから、新しい事を始める動機付けになりうる。諦めは、仕方なくにせよ、現状追認なので、何も変えられない。怒りはポジティブにも使いうる。憎しみはネガティブにしか使いにくい。

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絶望は必要だ。というか、絶望は前提だ。
諦めはよくない。諦めは敵だ。
怒りは必要だ。怒りのエネルギーこそが世の中を、世界を、自分自身を変える。
憎しみは何も生み出さない。新たな憎しみ以外は。