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こういうことを言う人が、そのうち出てくるかなと思ってたので、ちょっと書く。

こういうこと。↓

2008年02月17日 yousanotu 光市母子殺害事件で、あれほど法治、法治と叫び、罵倒しまくってたはてな民は、今回は何もいわないのな。

はてなブックマーク - 顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える: 性犯罪において、加害者の欲望はあらかじめ肯定され、被害者の人権はあらかじめ蹂躙されている

元記事はこちら→『顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える: 性犯罪において、加害者の欲望はあらかじめ肯定され、被害者の人権はあらかじめ蹂躙されている』
で、光市の事件に関連したエントリを僕も書いてはいる。「法治、法治と叫び」はしていないけれど。これ→『弁護士の仕事って、 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は』
それから、今回の沖縄の事件についてもちょこっと書いた。→『はてブのコメント欄に入りきらなかったので、補足。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は』
この二つの件は僕の中で別に矛盾はないのだが、そして、きちんと二つの記事を読んでもらえばそれは分かってもらえるとは思うのだが、そうは受け取らない人も居るかもしれないので、ちょっと書いておくことにした。あくまでも、僕個人の意見なので、他の人のことは、知らん。あと、id:yousanotuさんのおっしゃっていることをすごく曲解しているかもしれないけれど、もし、そうだったなら申し訳ない。ごめんなさい。(でも、もし、違ってても以下のことは書いた方が良いかな、と考えていたので、いずれにせよ、書く。)


光市の事件というか裁判のことで問題に感じたのは、バッシングが弁護団に集中したから。それはちょっと違うんじゃないの、と感じてエントリを書いた。以下引用。

基本的には(刑事事件における)弁護士の仕事は、法律の知識に(検事や裁判官に比して)疎い被告をサポートすることのはずだ。被告にとって何が利益となるのかを最優先に考えなくてはいけない、というのは当たり前のことで、そういう仕事なんだ。だから、弁護士の人自身の正義に照らして、被告の主張しようとすることが納得できない場合においても、仕事としてそれをこなさないといけないことだってあるだろう。
(中略)
例えば、僕が何らかの事件の被告になったときに、僕の選んだ(もしくは国選の)弁護士が僕の主張通りに法廷で闘ってくれなかったら、ものすごく困るもの。もちろん、僕の主張通りに争ったら100%負ける、ということであれば、違った戦術を提案するのも弁護士の役目だろう。でも、その場合でも、僕の了解もなしに勝手に進められては困る。僕が、弁護士の方針に乗れないと思えば、やはり僕の主張通りに闘ってもらわなくちゃいけない。(この時点で、他の弁護士に変えてもらうこともありうるだろうが。)

何が言いたいかというと、世間の常識から見て、どんなに荒唐無稽の主張であろうと、被告人がそのように主張するのであれば、弁護士はそれに沿って活動するのが仕事なんだよね、ということ。


裁判のニュースなんかで、「弁護側」が○○の主張をしました、というような言葉がしょっちゅう聴かれるけれど、僕はその言い方はおかしいと思う。「被告側」と言うべきなんじゃないか。

裁判というのは「原告」(刑事事件のときは検察とイコールになるけれど)と「被告」の間で争われるはずのもので、それを検察VS弁護士の図式に落とし込むのは事実を見誤らせるのではないだろうか。被告側の主張がおかしければ、批判・非難を受けるべきなのは被告本人ということになるはずで、それを弁護士自身の個人的主張であるかのように読み替えて批判するのはちょっと詐術的な匂いがしないでもない。

弁護士の仕事って、 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は

つまり、司法制度における弁護士の役割というものがあるのにも関わらず、被告ではなく、弁護士を叩く風潮に違和感を覚えたので、そう書いた。弁護士の人が世間の圧力に負けてしまうようでは困る、という危機感もあった。「法治」というのは「正義」のことではない。どんな極悪人でも、「正当な」裁判を受ける権利があり、弁護士の存在はその権利を守るためのものだから。
僕としては、この事件に関して被告に同情の気持ちは、ほとんどない。「ほとんど」というのは、事件当時、被告が未成年であったことと、被告の置かれた家庭環境などに若干の引っ掛かりを覚えるからだ。だが、それも、裁判所の最終判断が示されれば、それがどのようなものであれ、(この件については)特に異論を唱える気もない。今の法律ではこのように判断されるのだな、と思うだけだ。
それと、今後その法律自体をどうするべきかということや、もっと踏み込んで言えば、死刑そのものの是非についての意見を語ることは、基本的には別の話だ。死刑廃止論者だから、全ての刑事事件の被告に肩入れするかと言えば、そんなことは全くないし。その逆もまた同じ。


今回の沖縄の事件というかそれに関連する「報道」や「言説」について問題だと思ったのは次のようなこと。↓

今回の事件に関しては、まだ詳細が分からないことが多いような印象も受けるので、今後の捜査やあるいは裁判などの過程で事実が明らかになるのを待ちたいところですが、少なくとも、被害者に落ち度や責任があるかのような考え方を持つ人は、基本的な部分で勘違いしているのではないかと、省みた方がいいと思います。

被害者の行動が「賢明でない」とか「しつけが徹底されていない」ゆえに、このような事件が起きた(要因の一つになった)などという物言いは、現在被害を受けてしまった人にとっては「おまえが悪い」「おまえにも責任がある」となじられているのと同様の意味しか持たないんですよ。そのことに何の意味があるんですか? それをセカンドレイプと呼ぶのでは?

はてブのコメント欄に入りきらなかったので、補足。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は

あと、他にもはてブのコメントなどでいろいろ書いているけれど、一例としてはこれ(の後半の太字部分)。↓

2008年02月18日 nijuusannmiri 世間, 社会, ジャーナリズム, 性, 犯罪 元エントリにもこのエントリへのリンクをはった方がいいのでは。ただ、これは、この程度なら許されるとか、そういう問題じゃないと思う。防犯を説くのに、現実の進行形の事件を引き合いに出す必要は、そもそもない。

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ま、内容については他の人でもっと的確に書かれている人も居るし、僕がまたあらためて書くことではないが、総じて問題視されているのは、事件そのものもそうだが、むしろ、それ以上に事件を取り上げる人の考え方・姿勢の方だろう。現実の事件に絡めて防犯を説く行為そのものがアウトだ、と。
yukiさんのエントリはその行為(性犯罪者の被害者の落ち度をことさら指摘すること)の裏側に、性差別的な意識が存在していることを指摘というか抉り出しているわけ。それは、加害者の論理を肯定していることになるのだ、と。


だから、この2つの事件で問題視されている(と僕が考えている)ことは、全然違う次元の話なんだよね。
それを、「光市の事件では被告(加害者)の肩を持ち、今回の沖縄の事件では被害者の肩を持つのか」というような意見に短絡されるのだとしたら、それは単純に間違っている、事実として。
仮に、今回の事件に関連して、裁判で被告(加害者)側の弁護士が集中砲火を浴びるようなことになれば、やっぱり違和感を覚えるだろうし、そうなったら何か書くかもしれない(ま、書かないかもしれないが)。
また、光市の事件については、というよりそれに限らず、刑事事件の被害者に対する救済はもっと充実させていく必要があると思う。