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今日のひとりごと

フィクションが現実に影響を与えるのなんて当たり前だ。だって、現実には「俺」が含まれるし、俺はフィクションから多大なる影響を受けているもの。俺の人生なんて、レコード1枚で、本1冊で、映画1本で、簡単に変わってしまう。
映画『ファイト・クラブ』を見たら、やりたくなるだろ?ファイト・クラブを。ビルをぶっ壊したくなるだろ?
実際には、それをやらないのは大人の分別というか、俺個人の判断に負う。つまり、もしやってしまっても、それは映画のせいなんかじゃなく、俺の責任だ。そう言い切れるのは、俺が社会的・法的に大人に属しているからだ。
子どもがフィクションに影響を受けるのも当然のこと。しかし、子どもは責任が取れない。責任が取れないからこそ子どもなのだが。しかし、だからと言って、その責任はフィクション(作品)や作者にあると言えるのか? そんなわけがない。もし、誰かに責任を擦り付けるのであれば、それは子どもの周りにいた大人ということになる。そういう建前になっている。本音では「えー、俺のせいなの?勘弁してくれよ」だ。
この手の話は、議論しても不毛に終わることが多い。
しかし、芸術にせよ、エンターテインメントにせよ、表現は人に影響を与える。だが、その影響は「責任」をあらかじめ免れている。だから、受け取る方は、心してその表現に触れなくてはいけない。常に。表現に課せられた責任は、その表現そのものの「質(品質)」についてだけだ。その質が劣るものならば、批判も非難も罵倒しても構わない。しかし、受け手に与えた影響はその責任の範囲外だ。