「ふつうの言葉」と「詩の言葉」についての補足

今更な感じは否めませんが。
先日の『谷川俊太郎さんが答える「ふつうの言葉」と「詩の言葉」の違い』という記事に少しだけ補足をしておきたいと思います。
谷川俊太郎氏の「ふつうの言葉と詩の言葉の違い」についての回答に対して、僕はこう書きました。↓

何が言いたいかというと、引用した文章で谷川氏は、一見するとくっきりと解りやすい回答を示していらっしゃいますが、実際には「ふつうの言葉」と「詩の言葉」の境い目は、もっと曖昧だと思うんですよね。その曖昧さの部分に面白さを感じるものも多いですし。もちろんそんなことは谷川氏は百も承知で、それでもなおこのように回答されたんだと思います。その辺は、谷川氏の詩人としての矜持というかプライドが感じられて、そこもひっくるめて面白かったです。

この、「谷川氏の詩人としての矜持というかプライド」なんですが、要するに、谷川氏はプロの詩人なわけです。そのプロ自身が、詩人には「言葉の美醜、または巧拙について責任がある」と言っているわけで、これは「俺が書く詩は美醜も巧拙も、ある一定のレべル以上のもだ。俺はそれに対して責任を取る覚悟があるし、また、責任をとれるものを書いているんだ」と言っているのとほとんど同義だと思います。プロとして、へたなものは出せないし、出さないよというふうにも読み取れそうです。
だから、僕は「実際には「ふつうの言葉」と「詩の言葉」の境い目は、もっと曖昧だと思う」と書きましたが、そういったプロかアマかというような視点から見ると、谷川氏の持っているような詩人としての覚悟を持たないものには「詩の言葉」は扱いきれないよ、ということも言えそうな気がしてきます。つまり、内容・中身だけでなく、言葉そのものの美しさを考慮しなければならないわけで、その分「ふつうの言葉」よりも難易度のハードルが高いんですよね。
まぁ、僕としては「境い目はあいまいだ」という主張自体は変わりませんが、別の視点から見ると、ある程度はきっちり線が引けそうです。そこら辺が僕にとっては面白く感じられたんですね。