「隊」と「官」の区別にこだわる理由。

4月24日付けの記事にいただいた、Josefさんのコメントにレスします。

>だから、自衛官自衛隊を区別するのには意味があります。個人にレッテルを貼りたいのではなくて、組織(国家機関)としての行為の責任の所在を考えたいからです。


これ、よく分かりません。一般論として組織と個人を区別するというのは分かりますよ。しかしここでは「人殺しの練習」という軍隊が持つ一側面に焦点が当てられているのでしょ?軍隊が軍隊である以上、敵の殺傷に至る演習を行うのは必然であって、それは野球チームがキャッチボールをするのと同じくらい当然のことです。野球チームが「ボールを投げる練習をしている」ならば個々の選手も「ボールを投げる練習をしている」のです。


もちろん野球の練習方法や試合展開や結果についてなら組織と個人は同じにはなりません。かつて甲子園で松井秀樹を全打席歩かせた明徳野球が物議を醸しましたが、仮にこれを「汚い」と呼びうるとしても、それはチームの作戦の問題であって明徳部員一人一人が「汚い」ことにはなりません。しかし明徳野球部を「ボールを投げる練習をしている」と表現するなら、明徳部員一人一人も同じです。このレベルでは組織と個人を分けることに何の意味もないでしょう。


23mmさんの真意が「組織(国家機関)としての行為の責任の所在を考えたい」にあるのなら、自衛隊の現在・将来のあり方、為すべきことや為すべきでないこと等に焦点を当てて議論すべきではありませんか?「人殺しの練習」という軍隊の必然を指摘しておいて、個々の構成員をその行為主体から外すのは、読者からの非難をかわすのに役立つかもしれない以外に何の理もないと思います。(強制徴用されて無理やり練習させられているなら少々話は違ってきますが。)。

僕が、組織としての「隊」と、個人としての「官」の違いにこだわる理由をもう少し書きます。
Josefさんのおっしゃる通り、「野球チームがボールを投げる練習をしているのなら、選手もボールを投げる練習をしているのと同じ」というレベルにおいてだけで論じるのであれば、組織と個人を分ける意味はありません。でも、その先に「責任を問う」ということを視野に入れようとするなら、やはり、分けて考えるべきだと思います。




野球チームの例ではどうもしっくりこないので、違う例で考えてみます。
生活保護の業務を行うのは、組織としての(各地域の)社会福祉事務所であり、個人としての職員(地方公務員)です。この時点(生活保護の業務を行うという点だけを取り上げるとき)では、組織と個人を区別する意味はあまりないですよね。しかし、「責任を問う」ならば、その範囲は組織と個人とでは異なってくるはずです。
この場合、個人に課せられた責任は「与えられた職務を全うする」ということになります。この例で言えば、組織としての社会福祉事務所には、国の定めた生活保護制度に基づき、全体としてそれが適切に運用されるように務める責任があり、そのためにそれぞれの職員に役割(職務)を与えるわけです。個人としての職員の責任は、この役割を適切に果たすことに限定されます。逆に言うと、その役割を果たしている限りにおいては、それ以上の責任を問われない、ということになります。
職員が個人としての職務を果たしているにもかかわらず、制度が適切に運用されていない場合の責任は、社会福祉事務所が問われることになりますし、また、社会福祉事務所が適切に運用しているにもかかわらず、問題がある場合は、その制度を定めた国が責任を問われる、ということになります。このとき、責任を問う主体は、国民ということになります。
しかし、国民には、その制度を定める権限を国に与えているという意味での責任(の一端)がある、ということもあるので、その制度に問題がないのか、適切に運用されているのか、職員が役割を果たしているのか、それぞれチェックする必要がでてきます。*1



では、自衛隊の場合はどうかと言えば、「人殺しの練習」というのは、組織としての自衛隊が、個人としての自衛官に与える任務の中に含まれることです。つまり、自衛官が職務を全うしようとすれば、当然にその行為をしなければならず、しなければ職務を全うすることができないので、逆に、その意味での責任を問われてしまうわけです。ということは、少なくとも、個人としての自衛官には、「人殺しの練習」をしていることの責任は問えない、ということになります。*2
組織としての自衛隊に対しては(そうした任務を自衛官に与えること自体は、自衛隊そのものに与えられた役割を果たすためには必要なことなので、その意味での責任は問えませんが)、その「練習」がどのような内容で、どのように行われるのか*3には責任がある、と言えます。
そして、「そもそも自衛隊にどのような役割を与えるのか」を考える場合には、国家の責任というものが問われるわけです。*4



で、僕が言ってはいけないと書いた「人殺しの子」という言葉には、個人としての自衛官に「人殺しの練習」をしていることの責任を問う、という文脈が含まれると思うわけです。そこには、そうした文脈がなければ出てこない言葉だろう、という僕の政治的判断が、確かにあります。自衛官が職務を果たすためにしている行為に対して、そのことの責任を問うつもりもないし、そもそも問うことはできないのだから、そのような言葉は使うべきではないと考えます。(もちろん、親の職業や、親がした行為によって、その子が不当な扱いを受けてはいけない、ということもあります。)
また、自衛官という職業には、任務として「人殺しの練習」をすることがあると、あらかじめ分かっていながら自発的にその職業に就く、という意味での責任はどうか、という問題もあるにはあります。しかし、それは、個人が自己に対してのみ問える問題である、と僕は思います。それこそ「他人がとやかく言うことではない」というものです。
それは、他のあらゆる職業に対しても言えることだと思います。
だから、「自衛隊が人殺しの練習をしている」という「事実」を言うときに、その先に責任を問うという意識があるとしたら、そこで個人としての「自衛官」を主語にするのは適切ではない、と僕は考えるわけです。(「読者からの非難をかわす」という意図が全くない、とは言いませんが。)


それから、「自衛隊の現在・将来のあり方、為すべきことや為すべきでないこと等に焦点を当てて議論すべき」というのは、たしかにその通りだと思います。その議論の前提として、責任の所在がどこにあるのかを考える、ということでもあります。
とはいえ、一番最初からそこまで厳密に考えていたかというと、それは微妙ですね。というか、Josefさんを含む他の方々からの指摘によって、漠然としていた考えが整理されはっきりした、という感じです。
ただ、最初の記事が問題の多い中途半端なものだったな、という反省はあります。

*1:これを義務や責任と捉えるか、あるいは権利と捉えるかは、また別の問題としてあるでしょうが、ここではそこまで踏み込まないことにします。

*2:前に、Josefさんは「不祥事」という言葉をお使いになられましたが、不祥事とは与えられた職務を果たしていない・職務を逸脱しているときなどに起こることなので、そこでは個人の責任が問われることになるのは当然です。

*3:自衛隊の役割を逸脱した行為が為されていないかどうか、ということも含まれるでしょうね。

*4:当然、ここでも「責任を問う」主体は、国民ということになり、…以下略