はたして俺は人殺しなのか、という話。

最近、もう更新どころかネットに接続する時間さえろくに取れない状態です。RSSリーダーも未読記事がたまりまくってるし、すごーく限定された範囲内でしか、WEB上の話題も見ていないので、空気も流れも読まずにリンクも貼らず、今ちょっと時間が空いたので、少しだけ書きます。他に書きたいこともあるんだけど、もっと余裕があるときにでも、それはまたいずれ。



某知事が「自衛隊は人殺しの練習をしている云々」とか言ったとかで、それがちょこっと問題になったみたいですが、これがどうして問題なのか、僕にはさっぱり分からないんですよ。だって、これどう考えても正しい(事実として間違っていない)でしょ。
某知事は「自衛隊は市民の安全を守るためにこんなに頑張っている云々」という(自衛隊を持ち上げる)文脈の中でこの発言をしたようですが、問題は「人殺し」という言葉の持つネガティヴなイメージのせいなんでしょうか? でも、「人殺しの練習」なのは否定しようがないでしょう。もちろん、「人殺しの練習」だけをしているわけではないでしょうが、「人殺しの練習」を含む訓練をしているのは事実でしょう。違うのかな?


自衛隊が仮に戦闘行為を行ったとして、それで相手を死なせた場合、それを「人殺し」と呼ぶのは適当でない、という意見を見かけました。「そもそも人殺しという言葉には、ある特定の個人が別の個人を主体的な意思を持って殺す、というニュアンスがある。日本という国家が権力の行使として行う(自衛隊の任務としての)戦闘行為においては、自衛官は国家の意思を“代行”しているだけなので、個人として主体的に相手を殺しているわけではない。だから、自衛隊が『人殺しの練習』をしていると言うのは間違っている。」ということだったと思います。ひょっとしたら、解釈が間違っているかもしれませんが、そうだったら、ごめんなさい。
僕は、この意見が間違っているとは思いません。だから、異論も反論も批判もないのですが、だったら、「国家による人殺し」の練習をしている、と言い換えたらいいんじゃないの?とは思いました。
いや、やっぱり異論があるのかな。
ある個人が主体的に別の個人を殺すという犯罪行為としての「人殺し」と、国家の意思の代行として戦闘行為で人を死なせるということは、それぞれ全く意味合いが異なります、確かに。でも、ある人間が他の人間の命を奪う、という点では同じです。その意味で両者をともに「人殺し」と呼ぶことに、僕は違和感がありません。その行為をするのは、主体的であろうとなかろうと、現実的には特定の個人でしかないからです。*1
ただし、その行為をした人に対して「おまえは人殺しだ」となじったり、罵声を浴びせたりすることには違和感がありますが。当然ながら、刑法上の殺人・正当防衛・過失致死そして戦闘行為による殺傷は、それぞれ別個に考えないとダメだろうな、とも思います。
うーん、なんというか、そもそも僕は、他人をなじったり中傷したりするのが好きではありません。たとえそれが、「主体的な人殺し」であろうが誰であろうが、です。逆に言えば、そこさえ守られるのであれば、「人殺し」というのは必ずしも罵倒の言葉とは言えないと思いますから、慎重に使っていれば問題ないと考えます。某知事が慎重だったかどうかは知りませんが。(別に、擁護したいわけではないので。)


大体、「自衛隊は人殺しの練習をしている」という言葉と「自衛官は人殺しだ(人殺しも同然だ)」という言葉の間には大きな隔たりがあるのであって、一緒くたに論じるのは問題をいたずらに複雑にするだけだと思いますね。*2





あと、話はずれますが、「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」という言葉。これ、どういう文脈で使うかにもよりますが、これも間違っているとは言えないですね。使うのが適当でない文脈はあるでしょうが。
というか、これってひょっとして「原罪」のことではないの? もし、そうだとしたら素人(つまり僕)はうかつに手を出さない方が得策かも。でも、あともうちょっとだけ書いてしまいますよ。


誰かが僕に、「おまえは人殺しか?」と問うてきたとしたら、僕はなんと答えるだろうか。
「違うよ」と答えるとき、僕の中にあるのは個人の体験の記憶だけでしょう。過去にそういうことをしたことがない自分の境遇をラッキーだったな、と思っているかもしれません。
「そうだよ」と答えるとき、僕は明らかに、社会とか世界の枠組みを意識しています。戦争も飢餓もテロも犯罪も死刑制度も、個人の思いはどうあれ、結果的に容認している社会の構成員である自分というものを意識しています。
両者はどちらも正しい、と僕は考えます。
そういう自分を恥じるかどうかは、個人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません。というか、とやかく言うあなたはどうなんだ、という話。
そうではなくて、現実のある側面として「人間はみんな、少なくとも間接的には、人殺しだ」と評するのは、まぁ、受け入れられるかな、僕は。


あぁ、そういう話じゃないのか。「募金をしなかったら、間接的に人を殺していることになるのか」と言う話なのかな。だったら、答えは簡単。僕の答えはYESだ。
でも、これを問うときにはこういうことも考えないといけないよね。つまり「募金をしたら、間接的に人を殺していることにならないのか(あるいは、その罪を軽減することはできるのか)」ということ。僕の答えはNOだ。
そして、僕のこの答えを、あなたは受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。そういうこと。*3



2007/4/18追記

この記事のブクマコメントに少しだけレスしたいと思います。


>aozora21さん
確かに、自衛隊の演習の目的は「人殺しではない」ですよね。一言で言えば「防衛のため」です。相手の命を奪わずに済むならしない、ということも忘れてはいけません。でも、その「防衛」の具体的な中身に人を死なせてしまうという可能性も含まれるということを考えると、「人殺しの練習している」は単に事実であるということにはなると思います。少なくともそういう側面がある。もちろん、単に事実であるという以上の含みを持たせることは、僕の本意ではありません。
あと、この発言をした人の語彙が貧しい、というのもその通りでしょうね。それに対する批判は、僕は「言葉狩り」以上の意義を感じませんが、あっていいはずです。


>kmizusawaさん
確かに、発言内容の正否はともかく、それをすべき時と場合であったかという問題はあるでしょうね。でも、それはここではあえて問題にしませんでした。僕としては、それは些細な問題であるというかどうでもいい、と少し思っていました。


yuki_19762さん
えーと、下のコメント欄でのやり取りそのままなので、興味のある方はそちらを読んでください。


>keya1984さん
「自己満足」ですか…。それには返す言葉がないですね。僕は、「個人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません」とも上に書いたように、僕の意見を誰かに押し付ける気が全然ないので、押し付けているように思われるのを避けたくて、どうしてもこういう風に書いちゃうんです。

*1:2007/4/23追記。この書き方だと、自衛官の個人の責任を問うという意味に取れますが、僕にはそういう意図はありませんでした。詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/nijuusannmiri/20070423#1177256165をお読み下さい。

*2:自衛官の子を「人殺しの子」と呼んで蔑むのはもちろんいけない。同時に、殺人犯の子を「人殺しの子」と呼んで蔑むのもいけないと思う。そんなの断るまでもないことでしょうが。たとえ、僕が自衛隊なんかなくしちゃえばいいとか、殺人犯は全部さっさと死刑にしちゃえばいいという意見の持ち主だったとしてもですよ。※2007/4/23追記 こちらの脚注について補足記事を書きました。http://d.hatena.ne.jp/nijuusannmiri/20070423#1177318203

*3:2007/4/23追記 このあたりの記述について、補足記事を書きました。http://d.hatena.ne.jp/nijuusannmiri/20070424#1177328583