「売春婦は、自分で選択してなったのだから、差別されても仕方ない(又は、人種差別や部落差別とは異なる)」と本気で考えている人は、

「自分で選択してなったのだから」と、屠畜業に携わる人や、ニートや引きこもりの人や、ワーキングプアの人や、ホームレスの人に対する差別も仕方ない、と言うのだろうか。
それとも、やっぱり「売春婦は別だから」と言うのだろうか。たぶん、そうなんだろうね。


今、PCの無い環境に居るので、ブクマもトラックバックも出来なくて、この記事も携帯電話から更新しているんですが、こちらの記事のコメント欄は携帯からだともう見れないのね。でも、まだコメント件数が6件くらいの時は読めたんですけど、なんだか酷いことになっていて、それで冒頭の文章になった、と。
こちらね→http://yuki19762.seesaa.net/article/36170622.html
なんつーか、いちばん重要なことは、相手が誰であろうと差別してはいけない、というシンプルなことだったはず。それが何故だかよく分からないうちに、話がこじれにこじれてしまっているようで。
「差別する心」は誰の中にも存在し得る。それはもう、どうしようもない。だが、それを行動に移してしまってはいけない。当然のことですよね。
僕自身は、「差別する心」は乗り越えられる、と思っています。そのためには、まず自分の中の「差別する心」ときちんと向き合い、同時に、その対象について正しく理解することが、最低限必要だと考えているのですね。
もちろん、全ての人にそうしろと言うつもりはなくて、そうしてくれたらいいんだけどな、という淡い希望があるだけ。


しかし、そういう「差別する心」を乗り越える云々の前に、あらゆる人に対して差別をしてはいけない、という前提がないと話になりません。その前提が共有されていない人がいるから、おかしなことになっている気がします。
あらゆる人というのは、文字通りの意味で、例外は無い。たとえ犯罪者であろうが、法に基づいた処遇や刑罰以外の差別を受けるいわれはない。だから、もしも「売春が悪」ということが正しかったとしても、売春婦を差別することは間違いなんです。
少なくとも、個人(つまり自分自身)の尊厳を最大限尊重されたい、と思うのなら、そういう前提に立つべきではないでしょうか。


勘違いして欲しくないのは、「差別する」ことと「嫌う・非難する・罵倒する」ことは必ずしもイコールではない、ということ。要するに、yukiさんを「元風俗嬢だから」という理由で貶めるのは「差別」だが、例えば「yukiさんの書く文章は汚い言葉が多いから、嫌いだ」というのであれば「差別」とは言えない(かもしれない)、ということです。*1
そこで、自分の発言なり行動なりが「差別」なのか「単にその人を嫌っているだけ」なのか、注意深く判断する必要があります。「単にその人を嫌っているだけ」ということの中にも「差別する心」は混じっているかもしれなくて、中々厄介だけれど。


あぁ、それからこの記事についてもちょっと。→http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070317/1174138317
僕はずっと、aozora21さんのyukiさんの記事に付けるブクマコメントやエントリの一部が謎だったのですが、こちらの記事を読んでやっと理解できました。ただ、yukiさん自身が既にコメントされているように、発端になったブクマコメントの応酬は、共に差別発言とは言い難いように思います。
あと、ある人が「差別行為をする」ことと、その人が「差別主義者である」ことの間には、確かに距離があるとは思います。でも、自分が差別行為をした(している)ことを自覚したうえで、それを恥じることなく(本人は恥じているつもりかもしれませんが)開き直るのであれば、差別主義者であると指摘されるのは妥当だ、とも思えます。
相手を差別主義者であると名指しで非難するのは、確かに強烈で、相手を傷つけるかもしれませんが、相手を差別することには、この場合はなっていないと感じました。この辺の線引きは難しいけれど、僕としてはそういう考えです。

*1:もちろん、それが的を射たものでなければ、批判・反論の対象にはなる。