敵をいたずらに増やすことは、自分自身を危うくするんだ。

ちょっと前に、『"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか』(はてな匿名ダイアリー)という記事を読んで、さらにそれに言及したいくつかの記事も読みました。で、 元の記事のブクマコメントで、僕は次のように書きました。↓

これはきついな… 個別のケースとしては筆者に同情もするし、周りの対応も間違ってたと思う。でも、それを一般化させちゃいけない。それを「差別」と言うんだよ。

これは、今でもそう思ってるし、特に訂正する気もありませんが、元の記事の筆者の人(以下、彼女と表記)に対しては、思いやりの欠けた文面になっていることは否定できませんね。
元の記事はいくつかの重大な問題をはらんでいて、それのどこに比重を置いて読むかで、読み手の受け止め方が大きく変わると思います。
ただ、少なくとも「知的障害者であれば(全ての)犯罪が許される」なんてことはありえない、という事実は多くの人が既に指摘しているので、今さら僕が付け加えることはありません。障害者福祉の問題として受け止めた人たちの記事もいくつかあり、非常に興味深い指摘もされています。
でも、ここでは少し違う視点で考えてみたい。
僕なりに、この記事を書いた「彼女」=被害者の視点で考えたいのです。


彼女が痴漢行為の被害にあったのは、小学生のときだそうです。そのときの彼女の気持ちは、ちょっと僕には想像不可能なところがあるのですが、普通に考えて、とてつもなくショックだったろうし、傷ついただろうと思います。
彼女にとって、最も大きな問題で不幸だったことは、問題が起こったときに彼女を“守って”くれる人が居なかったこと、ではないかと僕は考えます。話を聴いてくれる人は居たかもしれませんが、受容し共感してくれる人が居なかった。それは、彼女の心の傷を癒すために絶対に必要なことだったのに。
もっと具体的に言えば、彼女を抱きしめて、共に戦ってくれる存在が必要だった。
「戦う」というのは、彼女の受けた仕打ちに対して、共に憤り、その問題を解決するために行動することです。けっして、口先だけの同情で慰めようとすることでも、外野から石を投げるかのように、加害者を罵倒することでもありません。
たとえ問題を解決することができなくても、最後の最後まで彼女の立場に立ち彼女を守っていく覚悟を、誰かが見せるべきだった。
僕も、助けが欲しいときに助けを得られなかった経験を持つ者として、この点に関してだけは彼女の肩を持ちたいと思います。


けれど、一つだけ間違えてはいけないのは、彼女が問題にすべきなのは、彼女自身の身に降り懸かった問題だけであって、それは、痴漢行為を実際にした彼と、彼と彼女を取り巻いていたその当時の環境に限定されるのです。
痴漢行為も、その他のあらゆる犯罪行為もしていない、圧倒的多数の障害者全体を敵視し、排除しようとするのは、僕は間違っていると思うのですよ。


最近読んだ山本弘のSF小説『アイの物語』の中に、次のような一節があります。↓

「だから僕は君を守る。君たちTAIを傷つける者は絶対に許せない。君たちの人権を勝ち取る。あのキリスト教原理主義者どもに、正義の裁きってやつを下してやる」
 私は気がついた。マスターは自分でも気がつかないうちに、憎悪の対象を拡大している。最初はテッド・オーレンスタイン、ただ一人だった。彼に対する憎悪が、全世界のバチャクルを行っている者すべてに拡大し、反TAI主義者すべてに拡大し、今ではその運動の背景にあるキリスト教原理主義全体に拡大している。
キリスト教原理主義者の大半は何の罪も犯していないというのに。

未読の人には何のことやら分からないでしょうが、TAIというのは明確な意識を持ったロボットのようなもの、バチャクルはそのTAIに対して性的虐待を含む虐待を加えること、テッド某は“マスター”の所有するTAIにバチャクルを行った人物、反TAI主義者とはTAIが人間に対して危害を加えるのではないかと恐れ排斥しようとする人たち(キリスト教原理主義宗教的背景に持つ人が多い、という設定)、「私」は“マスター”の所有するTAIである、とおおざっぱに理解してもらえば、意味が分かるでしょうか。
人間というものは、このように「自分の敵」を無意識のうちに増やしてしまうところがあるみたいです。僕にも身に覚えがあります。
でも、これがエスカレートしていけば、結果は誰にとっても不幸なものにしかならないとも思います。それは悲しい。本人は「正しいこと」と信じているだけに余計に。
怒りを感じたとき、その怒りの対象を拡大することは、精神の安定を手軽に得る方法の一つかもしれません。しかし、それは、本当に問題なのは何かということが見えにくくなる、という副作用があります。問題が見えにくくなれば、問題を解決することなんて無理ですよね。解決できなければ、精神の本当の安定もまた、いつまでも得られないのです、きっと。
だから、余計なお世話を承知であえて言わせてもらえば、彼女には、問題の解決のために何がいちばん良い方法なのかもう一度よく考えてほしい、と僕は思っています。