機械に意識はあるか。人間に意識はあるか。ドーナツに穴はあるか。

3〜4日前くらいに、アルファな方たちが「意識」についていろいろお書きになっているのを読み、それからぼんやりと考えていたのですが、僕もちょっと書いてみますか。
極東ブログさんは

我々人間は機械である。脳も機械である。そして人間または脳には意識があるとされている。では、機械は(機械の有りようによっては)意識を持ちうると言うほかはない。

と、おっしゃる。なるほど。
また、404 Blog Not Foundさんは

実はインターネットや機械はおろか、「私」以外の何ものにも「意識」はない、というより意識を持っていることを証明できないことが導き出される。そう。私にとって、あなたの意識はあるように「見える」だけなのだ。私の意識があなたにあるように見えるのと同じく。

(中略)

機械に意識を持たせようとしたら、まず欲求を与えなければならない。その欲求の求めるままその機械が動き、時には満たされ時には奪われ、そうやって活動--生きてみて、はじめて「意識」と呼ぶに値する「もの」が誕生するのではないか。

と書かれている。うーん、そうか。(欲求の有無はどうやって測定するんだろう?ということは、ちょっと疑問に思った。)
そして、分裂勘違い君劇場さんは

意識のある人間も、ない人間も、外部からの刺激に応じて行動するだけで、外部から見ただけでは、その人間に意識があるか無いかは、原理的に判別不可能なのです。

とお書きになっている。ふむふむ。
で、結局のところ「意識って何?」という疑問が解消されたかというと、全くそんなことはなく、「意識を科学的(論理的)に解明(定義?)することはできないっぽい」という“感じ”がするなぁ、という程度。
ひょっとして、何か思い違いをしているのかな?


…というところで、僕の思考もストップしていたのですが、ある小説がきっかけになって、また考え始めたのですね。そのきっかけがこれ。↓

アイの物語

アイの物語

思いっきり簡単に言うと、AIとかロボット(と人間の交流)の話。まだ読み終わってませんが。
で、この本の内容に直接関係があるわけではないのですが、「機械(とかロボットとか)が意識や知能を持つ」ってどういうことなんだろうと考えたときに、小飼弾さんやfromdusktildawnさんが言うように、「意識の有無は、外部からは判断不能」が正しいとするならば、結局のところ、ある機械が「意識があるかのようにふるまう」ことができれば、「その機械は意識がある」としても別に構わない、ということになるのかな、と僕は思ったんですね。
「本当に意識が有るか無いか」を問うことが無意味ならば、「意識があるように“見える”かどうか」を問題にするしかしょうがないのでは、と。極論すれば、犬に意識があるか、ということと、AIBOに意識があるか、ということは、(人間(≒僕)から見れば)かなりの部分、同じなんじゃないのかな、と。
というか、実は、意識そのものも、それ自体がどうのこうの、という物ではなくて、意識があるように“見える”ことの、“見える”の部分に本質があるんじゃないの、という気さえしてきます。
僕らは、つい、意識と肉体(あるいは機械)とは別物、と分けて考えがちなんだけれど、もうそれ自体が間違いではないの、と。あるいは、意識そのものを他の物と切り分けられると、どこかで思っているのだけれど、そうではないんじゃないかな、と。


…と、ここで、僕が先日書いた「ドーナツの穴理論」の話を持ち出したいのですが、この部分↓

「本当の自分」というものは「ドーナツの穴」と一緒。「ドーナツの穴」は確かに存在しているけれど、ドーナツそのものがなければ存在しえない、不可分のもの。穴(=本当の自分)を取り出そうとして、周りのドーナツを取り除いてしまうと、穴もなくなってしまう。だから、本当の自分を知るためには、そこだけに目を凝らしていてもダメで、ドーナツ全体を見ないといけないよ、ということ。

この、「本当の自分」という怪しげな言葉を、「意識」に置き換えてみてみても、当てはまるのではないか、と思うんですよ。つまり、意識は「穴」だ、と。穴が確かに“存在している”かどうかは、人によっては判断が分かれるかもしれませんが、「存在しているように見える」のは間違いないと思います。
意識が穴のようなものだとすると、ドーナツから穴が切り分けられないのと同様に、意識を他の物(肉体・脳など)から切り分けることもできない、ということになります。また、「ドーナツの穴」を定義するためには、「ドーナツ」をまず定義する必要がある、ということと同様に、「意識」を定義(解明?)するためには、それを取り巻く物を定義(解明)しなければならない、ということも言えますね。
では、意識を「取り巻く物(≒ドーナツ)」って何なのだろう? 最有力候補は「脳」なんですが、これはそんなに自明のことなのかな、という疑問があります。ただ、意識と脳は関係が深い、とは言えそうなので、「ドーナツ」の一部であることは間違いないでしょう。でも、果たして「ドーナツ」の全てであると言い切れるのでしょうかね。(ま、これは余談ですが。)意識の謎を解明しようとして、見当違いの方向で頑張っている科学者とか居そうだな、となんとなく思ったりして(←ふつうに失礼)。


で、結局何が言いたいのかというと、「意識」の問題で妙な違和感があるのは、そもそも「意識って何?」がさっぱりわからない状態でそれを論じてみてもらちが明かないよな、ということ。たぶん、意識の定義から見直さなければ、機械に意識を持たせることなんて、絶対無理っぽいよな、と。僕がここに書いたことも、言葉遊びに過ぎない、って言われたらそれまでですが。