あぁ、僕も何年か前に、全く同じようなことを考えてました。

こちらを読んで。→『オトコのキモチ2 : たまねぎ』

1枚剥ぎ取り,もう1枚剥ぎ取り,
順に剥いでいった。
あるところで,
これはほんとうの自分? 
それともまとっているもの?
と迷いはじめる。
迷うということは,まだほんとうの自分じゃない。
さらに1枚剥ぎ,もう1枚剥ぎ…。


けっきょく,全部剥いでしまえるんだな。
たまねぎのように。

そう、「自分」はたまねぎみたいに、皮をめくっても出てこない。だって、そのめくった皮そのものが「自分」なんだから。僕は、これに「たまねぎ理論」という名前を勝手に付けてました。
これを思いついたとき、嬉しくて(なのか何なのか分からないけど)結婚する前のうちの奥さんに話して、嫌そうな顔をされた覚えがある。ごめん、興味なかったんだよね。
あとこちらも。→『歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 本当だと思えばそれは本当なのだ』

虚飾を纏おうが、纏っているのも自分だ。他人が見てその虚飾が嘘だったとしても、それは本人にとっては嘘ではない。嘘とは何時か本物に変わる可能性のある物なんだよ。可能性がある限り、それは嘘ではない。自分が本当だと思うものが本当で、嘘だと思う物が嘘なんだ。それでいいじゃないか。私はそう思っている。

xuraさんのブログを読んでいると、こういう言葉がポロポロ出てくるので、すごいな、と思う。


僕は、今は「本当の自分」をあんまり気にしないことにしています。仕事をしている僕も、遊んでいる僕も、ブログをやってる僕も、全部自分だもの。
「本当の自分」を探している人は、「ライチ理論」なんだと思う。表面の皮をむくと、そこには果肉がある。でも、そのさらに奥には硬い種があって、それが「本当の自分」なんだと。外面も、親しい人にだけ見せる顔も、「本当の自分」ではない、というような。そう思っている人には、それが「本当」なんでしょうね。
でも、そうではない見方もあって、「たまねぎ理論」とはちょっと違うのだけれど、「ドーナツの穴理論」というのがある。「本当の自分」というものは「ドーナツの穴」と一緒。「ドーナツの穴」は確かに存在しているけれど、ドーナツそのものがなければ存在しえない、不可分のもの。穴(=本当の自分)を取り出そうとして、周りのドーナツを取り除いてしまうと、穴もなくなってしまう。だから、本当の自分を知るためには、そこだけに目を凝らしていてもダメで、ドーナツ全体を見ないといけないよ、ということ。今は、こういう考え方を選ぶかな。強いて言えば。


あと、「ピーマン理論」とか「落花生理論」とかいくらでもやれるんですが、あまりにも言葉遊びが過ぎるのでやめておきます。