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「僕」は子どもで、「私」は大人なのか。一人称の問題と、自己規定の問題。

先日、ある雑誌を読んでいたら、ある小説の書評に目が留まりました。その小説自体は、僕は未読なので、その内容には触れませんが、その書評によると、「50代の主人公の一人称が『僕』」となっているらしい。そして、日本語で小説を書くときには、一人称を「僕」とするか「私」とするかの問題があり、それと、「自分は何か。人はいつ大人になるか」という問題がリンクしている、とその書評は続いていきます。で、この小説の主人公は「もしかしたら人は大人になれないのではないかと気付く」ということらしいのですが、いやぁ、面白そうなんで、ちょっと、読んでみたくなります。
なるほど、一人称を「私」にするか「僕」にするかは、とても大きな問題。どちらかというと「私」は大人な感じがする。というか、「私」で書かれた文章は、大人の雰囲気がする。例えば、finalventさんとか、小飼弾さんとか、manameさんとか、とかとか。(本人たちがどういう風に自己規定しているのかは、また別の問題。)で、その書評にも書かれているのですが、「僕」で書くと、その言葉に引っ張られて発想も大人にならない、ということがある、と。あぁ、なるほどね。「僕」というのは青少年の言葉なんだ。だから、「僕」を使い続けていると、実年齢の自分と、内面における自己像が違ってきちゃう、と。そこで、「いつまで経っても大人になれない自分」を自覚してしまうということか。


で、そもそも「大人」って何よ、ということになるんだけれど。ま、「完成された人間」ではないな。それは神様。「立派な人」ってのもなぁ、ちょっと違う。模範解答は「自分のやることに責任を取れるのが大人」というものなんだけど、責任から逃れようとする大人なんていくらでもいるよね(←ここ「大人」という言葉の使用法を意図的に混乱させてます)。そういえば、fromdusktildawnさんが「この惑星上には、そもそも大人などいません。ただ、65億人の子供がいるだけです」と書かれていたけれど、ある意味でそれが正解なんだろう、と思います。
僕は、「大人」というのは「大人らしくふるまえる人」のことだと思う。というか、ここでは、そう定義する。
でも、これには、いくつかの層がある。
まず、「公」(パブリック)という層。これは、法律で「20歳以上は成人」と“規定されている”、ということ。つまり、日本では20歳以上はどんな人でも、一律に大人と見なされますよ、ということですね。ま、これにもいろんな段階があって、例えば少年法とかの問題も考慮しといた方がいいのだけれど、面倒なのでとりあえず省略。とにかく、「公」の層では「20歳以上は“大人の行動”をしなさい」と、決まっている(規制されている)、と。ただし、この規制はかなりゆるい。(法律を守りなさいよ、ってだけのことだから。)ここでは、一人称がどうとかは、あまり問われない、気がする。
次に、「社会」(ソーシャル)という層。これは、例えば、卒業式とか成人式とか、あと仕事の場面とかで、「大人らしくふるまう」ことが求められている、ということ。ここで、おかしなふるまいをしていると「社会性」がない、と言われてしまいますよ、と。一人称の問題で言うと、「僕」とか「俺」ではなくて、「私」を使うことが求められている(期待されている)、ということ。会議なんかで「私」と言えない人は、本当のところはどうあれ、バカっぽく思われてしまう、と。
そして、「私」(プライベート)の層。これは、仲間同士の会話、簡単に言うと居酒屋のこと(世間話のレベルのこと)。あるいは、家族内(≒お茶の間?)とか。ただ、プライベートと一口に言っても、いろいろで、自分と相手との距離感によって、どうふるまうのかが変わってくる。会社の同僚と、学生時代の友人と、家族とでは、それぞれ付き合い方が変わって当然(“世間”が違うのだから)。この距離感に応じた対応ができるのが「大人」、なのかな。距離感によっては、ソーシャルな意味での「大人らしいふるまい」をしなくてもいい場合も結構ある。で、この層では、一人称はかなり自由にはなる。「僕」はたいてい大丈夫だ。
ところで、この「ソーシャル」と「プライベート」は境界が曖昧だったりする。というか、日本は(と言い切れるほど他の国のことを知らないけれど)、ソーシャルの層が薄い。ソーシャルにプライベートがかなり侵食していってしまっている。「仕事で公私の区別が付けられない人」がよく非難されるけれど、それを非難している人自身も、プライベートのつながりを違った形で仕事に利用していたりする。接待ゴルフとか。逆に、職場の飲み会なんてのは、ソーシャルな付き合いをプライベートに持ち込んでしまっている。なんで、仕事以外でおまえなんかと付き合わなくちゃいけないんだ、と思っていても、それを表に出さず上手にやるのが「大人らしいふるまい」とされたりして、理不尽だな、でも、そうなっちゃてるもんはしょうがない。そうではない仕事場も、もちろんあるにはあるでしょうけど。日本には「世間」はあっても「社会」はない、なんて言われるのも、まぁ、そうなのかな、という感じですね。
最後が、「個人の内面」(パーソナル)の層。これは、自己をどう規定するかの問題。大人らしいふるまいができているので、自分を「大人」と見なすのか、いや、外面的にはともかく、内面的には自分はまだまだ大人じゃないよな、と思うのか。ここで、自分を「僕」とするのか「私」とするのかが問題になってくるような。どうも、「僕」を使っていると、永久に自分を「大人」と見なせない気がする。「私」ならば、できるのか。それはわからないが、「僕」よりはできそうな気がする。


それで、僕自身はどうか。実生活においては、ソーシャルな場面ではだいたい「私」を使っている。プライベートな場面では「俺」が多くて、たまに「僕」も使うかな。でも、ものを考えるときは、ほとんど「僕」だ。つまり、僕は永久に大人になれない、ということが証明されてしまった(?)。いや、本当はfromdusktildawnさんが書いたように、誰も「大人」になれない、ということなんでしょうが。


最後に余談。ブログに書く、というのは上の4つの層のうちどれに入るのか。(ま、パブリックは外してもよさそうに思う。)
本当はソーシャルなんだと思う。でも、僕自身もそうだけれど、プライベートなものごとを書いている人は多い。別にそれで構わないのだけれど、プライベートなことでも、ブログに書いたときからソーシャルになるのだ。世間話でも、新聞に載ってしまうと、社会的な問題になる、というのと同じ。それは意識しておいて損はない、と思う。
で、考えてみると、僕が読んで面白いと思うブログは、時にパーソナルの層の自分をソーシャルにさらけ出すことに自覚的なものがほとんどなんじゃないか。今さらながらに、そんなことを思いました。


あ、あと大事なことを書き忘れるところだった。一人称で「僕」か「私」で悩むのは、基本的に男だけなんですよね。女性はこれには、たいてい当てはまらないんでしょうね。でも、男性とはまた違った葛藤があるのかな。その辺、他の人の意見も聞いてみたい。それから、僕は社会学的な知識の裏付けとか全く無しで、この文章を書いたので、おかしなところがあるかもしれません。ツッコミ希望。