「みんなの意見」も「自由意志」も存在しませんよ(?)。

こちらの記事を読んで。→『「で、みちアキはどうするの?」 -「自由意志は存在しない」ということを、なるべく簡単に解りやすく説明してみたい』
以下引用↓

で、人間の精神とか意識とか、そう言われているものについて。これは、現在の脳科学では「脳活動の随伴現象」という解釈が主流だと思われるので、ここでもその説を採ります。随伴現象、したがいともなう現象とは、まぁ自動車のエンジンと速度計みたいな関係ですね。エンジンの回転が上がれば速度計の針も動く。しかし針を指で動かしてもエンジンの回転は上がりません。そういった一方向の関係だとします。実際、ある種の薬物で気分が変化したり、脳が損傷を受けると各種の意識障害が起きたり、ということからも、まぁ妥当な説なのではないかと。よく「××××なんて脳内の化学反応の結果に過ぎない」みたいな言い方も見かけますけど、これも随伴現象説が底にある見方ですね。
(中略)
いや、それでも選択はできるはずだ、という人は、ちょっと考えてみて欲しいのです。いったいあなたは、何を「できる」と言っているのかを。それはおそらく、速度計の針を動かしてエンジンの回転を上げようとするような話です。脳活動の結果に過ぎない「精神」が、その原因であり物理的実体である「脳」に、どうやって干渉するのでしょうか。精神が脳に干渉するのではなく、脳のある部分が他の部分に干渉し、それが精神状態に反映されるだけなのです。そしてその過程はただの物理現象に過ぎないので、予測不能とは言えど決定論的です。

うーん、元の記事を読む限り、確かに「精神が脳活動の随伴現象であるとするならば、自由意志は存在しない」で良いような気がします。「精神が脳活動の随伴現象である」というのがどの程度証明されているのかは分かりませんが、まぁ、そうなのかな、と思えます。
エンジンと速度計の例えは分かりやすくて、納得しやすい。でも、エンジンとアクセル・ブレーキの関係だったら? と思いかけたところで、「あぁ、それじゃ、そのアクセルとブレーキを踏むのは誰なんだよ、ってことになるわけか。そこで、霊魂みたいな概念を持ち出さざるを得なくなってしまうと、こりゃアウトだな」と気付き、却下。
ま、これは所詮、僕のような人間には手に負えることではないので、これ以上は深入りしません。そうではなくて、僕は、こちらの記事を読んで全然違うことを考えました、ということが書きたいのですね。


ちょっと前に 『「僕の意見」が「みんなの意見」に変わるとき、「僕」は抜け落ちてしまう。』という記事を書いたのですが、僕がその記事で言いたかったことは、極端に言うと「みんなの意見(世論とか集団の意見)というものが存在するというのは、錯覚とか幻想でしょう。参考にはしても良いかもしれないけど、そういうものに振り回されるのはやめた方がいいんじゃないかな」ということです。あんまり上手く書けてませんが。
で、みちアキさんの記事を読んで、「あぁ、みんなの意見どころか、僕の意見なんてのも、錯覚なのかもしれないんだな」と思えてしまって。
個人の意見が寄り集まって、あたかも「みんなの意見」みたいなものが存在しているように見える、ということと、ニューロンだかなんだかの脳の内部での「ふるまい」から、あたかも「自由意志」が存在しているように見える(ニューロンのふるまい一つ一つは、僕が意識のレベルで「こうしたい」と思ったこととは直接関係しない)、ということは、なんか似てるような気がして、面白いなぁ、と。いや、もしかして、全然似てないのかもしれないけれど。
ということは、僕は「僕の意見」に振り回されるのもやめた方がいいんだろうか…、ってそんなところまでは本気では考えていませんが。結局のところ、僕の自由意志が確かに存在していようと、あるいは存在しなかろうと、僕の、この現在の僕の行動には、ほとんど何の影響も無いですから。自由意志なんて無いんだと僕が“思った”ところで、僕がカレーライスを食べたいと“思わ”なければ、カレーライスを食べられないという事実には変わりない。それが、自由意志の結果でなくても。でしょ?
「僕の意見」が「みんなの意見」に振り回されるのはやめた方がいい、ってのも、実際のところ、互いに影響しあうのは避けようがないし、とは思いました。あぁ、でも、ニューロンが僕の「意志」のためにふるまうわけではない、というのと同様に、「僕」も「みんな」のために行動するわけではない、ってことか。


…というふうに、ぐるぐる回ってオチはない、といういつものパターンですね。