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そういえば『邪魅の雫』も読んでました。

読書生活

読んだのは、去年、この本が刊行されてわりとすぐだったので、もうだいぶ時間が経っちゃってますが。

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

シリーズ物は、出ると半ば義務感にかられて読んでしまいますね。この作品はこの「京極堂シリーズ」の中では、最高傑作、とは言い難い、でも、ファンには外せない作品でもあると思います。*1
でも、それは、まぁいい。
僕が、この作品を読んで個人的に感心したのは、「社会」と「世間」と「(個人にとっての)世界」と「(大きな意味での)世界」という言葉のそれぞれの意味が、少なくとも日本語のニュアンスにおいて、きちんと分類されていたところ。
例えば、何らかの犯罪を犯した者は、まず“社会的に”裁かれるわけです。懲役何年とかね。で、その刑期を終えれば、少なくとも社会的には許してもらえてるはずなのですが、実際には、まだ“世間”が許してはくれてないわけです。世間に許してもらうには、もっと違った努力が必要で、しかも、世間はなかなか許してくれないものです。
で、“世間”というのは、一つのものではなくて、仕事場には仕事場の世間があり、家庭には家庭の世間があり、友人関係にしても、サークルにはサークルの、同級生には同級生の、合コンには合コンの、それぞれ別の世間がある。つまり、1人の人間が複数の“世間”を持っている、と(それが、全体として世界を作っている、とも言えるかのかも)。それぞれの世間では、それぞれの“世間話”があって、同級生同士でしか通じない話は、家庭に持ち込んでも通じない話だったりするわけです。


そこで、話は飛躍してしまうのですが、平たく言うと“社会”というもの(まぁ、“公”と言ってもいいかもしれませんが)は、これらの“世間”の調整機能である、と。それぞれに話のかみ合わない世間同士を、どうにか良さそうな所で妥協させておくものである、と。(なんかid:finalventさんみたいな言い方だ。)だから、その結果が「これこれの罪を犯した者は、これこれの刑を科す」というようなものだったりするわけですね。
で、裁判なんかはその“社会”に基づいてやってもらわなくちゃ困るわけです。そういうルールなんだから。ところが、「その罪に、その刑では軽すぎる。もっと重くするべき」という議論は、“社会”のレベルではなくて、“世間”のレベルでやってしまうんですね、どうも。この国では。多くの利害なり理屈なりがぶつかったり絡まったりしている複雑な事象を、自分の狭い世間の価値観で説明しようとしてしまう。その辺で、いろいろ無理が出てしまう気がします。
んで、世論というものは、その“世間話”のレベルの最大公約数に過ぎない、と思うわけです。もちろん、無視してもらっちゃ困りますが、政治の人や、特にマスコミの人は、世論に(というか世間に)おもねりすぎでも困るわけです。“世論”というのは、正義ではないし、“公”でもない。この間少し書きましたが、世論は基本的に、匿名的で無責任なものです。大事だけど、絶対にどんなことがあっても従わなくちゃいけないことではない。政治の人もマスコミの人も(もちろん、僕も)、世論の顔色を窺うのと同時に、(会社としてでもなく)個人としての“自分”の考えなり姿勢なりを、きちんと示さなくちゃいけない(出来てる人も、もちろんたくさん居る、はず。たぶん)。そのせめぎ合いからしか“公”は生まれないんじゃないのかしら、と。


…てなことを、この作品を読みながら(小説としてのストーリーとかとは全然関係なく)、ぐるぐる考えてた、という話。

*1:ちなみに、僕が、京極作品でいちばん好きなのは、これと同じシリーズの『鉄鼠の檻』かな。