物語は(そう簡単には)死なない。ただ、変わってしまうだけ。

11月2日の日記は、ここの記事にしては多くのブクマが付いたのですが、あらためて読んでみると、ダメなところが多いかな、と思います。
ま、「検索エンジンが『物語』を破壊する」というのは言い過ぎで、多分「検索エンジンは『物語』のあり方を変える」ぐらいが妥当な線だろうな、と思います。それに、現在が「やがて変わるだろう/いま変わりつつある/既に変わってしまった」という段階のどこにあるのかは、人それぞれの主観によるのだろうな、とも思います。しかし、その変化は確実に起こっているし、検索エンジンを考慮しなかったとしても、その流れはできている、そんな気がします。
それじゃ、具体的にどう変わるのか、ということを考えなくちゃいけないわけですが、はっきり言って僕の手に余る。なんとなく、「始まり」「途中」「終わり」の区別が今よりもっと可変的になってはいくんだろうな、とは思いますが。だから、小説や映画のような分岐の無い一つのストーリーを提示する表現方法は、余程工夫しないとますますキツクなっていくんだろうな、と。
例えば、テレビの連続ドラマなんかは、今は最初から終わりまで脚本ができていることなんてまずありえないらしい。せいぜい最初の2〜3話分くらいだとか。その後は視聴率の動きなど、視聴者の反応を見て、ストーリーをどんどん変えていくようです。それも、一つの工夫ではある。
音楽なんかは、今や完全に1曲単位で消費されています。アルバム単位・アーティスト単位の評価は、このまま行くと無意味なものになってしまうのかな、という気さえしますね。
ひょっとしたら、「物語」はそんなふうにどんどん細分化されていって、受け取る側は各個人の好みに合わせて、おいしいところだけを自由につまみ食いする、ということになるのかもしれません。って既にそうなっているのか。YouTubeとか。
なんだか、「全体」から「部分」に比重が大きく変わってきているのかな? どこかにいいバランスがあるのでしょうか?
僕は、細分化された「物語」よりも、もっと強靭な物語の方が好きだし、音楽はできれば曲単位よりもアルバム単位で楽しみたいので、あんまり行き過ぎてしまうのも困りもんだなぁ、個人的に、と思ってます。