それは、「物語」の作り方に似ている、と思った。(数学とはほとんど関係ありません)

304 Not Modified: 数学はプロセスが9割を読んで。以下引用↓

私は数学しかできなかった人間なので(大学もセンター+数学一科目入試)この考え方が数学の考え方なのかすべての科目に当てはまるものなのかはわからないが、人は、ある事柄を「理解」するときその事柄を自分が既に持っている知識に照らして何らかのマッチングを取って「解釈」するものだと思っている。だから、テストというものは「答えを出す」ものではなく、与えられた問題から自分の知識から最適な情報を取り出しそれをいかに当てはめることができるかだと思っている。この問題はあの公式を当てはめればいいんだと気づいたら8割がた正解で、あとの2割は計算力で正解を算出するだけだ。

テストに関する考え方は諸説あるようで、必ずしもこの記事のとおりというわけではないのでしょうが、「理解」とは「解釈」のことである、というのは全くそのとおりだなぁ、と思いました。
そこで、僕は、数学とはほとんど関係のないことを考え出してしまったのですが、あまりにも関係ないので、トラックバックはやめときます。


確かに、人間は、何かの事柄を理解しようとするとき、意識的にせよ、無意識にせよ、解釈を行っています。僕は、「解釈」というのは「物語化」とほとんど同じことなのではないか、と思うのですね。
「物語化」というのは、例えば、「未開封のカップラーメンの絵」と「満足そうに、つまようじで歯を掃除している人の絵」を見て、「この人は、カップラーメンを食べて、満腹なんだな」と思う、というようなことです。人間は、何らかの情報に接したときには、こういうことを程度の差こそあれ、やっていると思うわけです。
実際には、「未開封のカップラーメンを横にどけて、チャーハンを作って食べた後」かもしれないし、「カップラーメンを食べたけれど、外面とは裏腹に、まだ食い足りないな、と思っている」かもしれません。「そもそも、なんの因果関係もない」という可能性もあります。
もちろん、ここで、「そういう『解釈』と数学における『解釈』は同列には扱えない」と言うこともできます。それはそれで、正しいとは思いますが、「原因(問題)と結果(答え)の間には、複数の解釈(解き方)がある(可能性がある)」という意味合いにおいては、同列に扱っても差し支えないと考えます。
「僕が物事を解釈する」ということと、「数学の問題を解く」ということの違いは、前者が「僕自身が腑に落ちる『物語』を選択する」ということであるのに対し、後者は「数学的に矛盾の無い『解釈』を選択する」ということの違い、なんでしょう。*1


さて、僕は以前に『物語は誕生し、物語は生き、物語は死んだ。』という記事を書いたのですが、そこから少し引用します。↓

物語の構成要素は、突き詰めると三つだ。始点があり、通過点があり、終点があれば、あるいは、そのように見える三点があれば、人はそこに意味を見出だし、物語を作り出すことができる。

  • 男は誕生した。
  • 男は生きた。
  • 男は死んだ。

これは、単なる事実の羅列に過ぎない。けれども、これだけのことから人は物語を作り出す。「いかに」という意味を与えて。(新約聖書はそのようにして書かれている、というのは冒涜だろうか。)

(中略)

しかし、人が考える「物語」は、あらゆる「物語」は、常に可変的であって確定していない。物語とは解釈のことであると考えれば、人の数だけ物語は存在し、その全てが真実である。または、全てが真実ではない。

まぁ、結局は、人は自分が知りうる範囲内のことしか認識できないし、「理解」も「解釈」も好きなものを選んでいるだけ、ということなんでしょう。ただ、人は数学に関しては「これは自分には分からないや」と、わりと簡単に留保(というか棚上げ)にしてしまえるのに、ニュースやなんかだとそれがあんまりできないように見えるのは、なんででしょうね。人間は余程「物語」が好きなんだな、もちろん僕も含めて。
とにかく、僕は「物語」をそういうものだと捉えています。


ここまでが実は前振りで、ここから唐突に本題に突入します。上記の304 Not Modified: 数学はプロセスが9割から、もう一度引用します。↓

答えだけを知りたければググればいい。インターネットという膨大なデータベースから、Googleの素晴らしいアルゴリズムが与えられた条件に従い最適な情報を見つけてきてくれる。しかし、人間の頭脳はそんな検索はできない。知識というデータベースをどのように構築するか、与えられた問題を解決するために必要な知識をどのように取り出すか、取り出した知識をどのように使うか、…こんなことまで考えている人はいないだろうけど、きっとそんなことだと思う。

僕は、この「答えだけを知りたければググればいい」ということが、新しい「物語」の形を導き出すのではないかな、という気がするんですね。
僕の『物語は誕生し、物語は生き、物語は死んだ。』という記事には、こう書いています。↓

人類の歴史のどこかの時点で、「物語」は誕生した。おそらく、人類が言葉を獲得したのとほぼ同時期に。
そして、情報を記録することによって「物語」は時間を超えて共有され、さらに出版や放送などのメディアの発達によって、空間の壁をも突破し拡散していった。しかし、それもインターネットの登場により、ピークを迎えた。これ以上の発展は望むべくもない。(それでも、新しい技術の可能性は残されてはいるけれど。)
物語が死にかけている、というのはそういうことだ。そして、拡散しきった「物語」の向かう先は、もちろん収縮ではない。収縮するのであれば、それは単に「物語」をもう一度やり直す、ということでしかないからだ。
「物語の死」とは何か。それは、物語が意味を剥ぎ取られることにほかならない。意味を剥ぎ取られた物語は、もう物語ではありえない。別の何かだ。
「物語が死を迎えた世界」では、「始まり」も「途中」も「終わり」も連続したものとは見なされない。写真に写った三つの点が、それぞれが別々の点であって、けっして「顔」ではないように、それらは、独立した事柄として扱われる。
検索エンジンは、情報をまさにそのように扱う。表示された検索結果は、個々には意味を持っているかもしれないが、連続した意味を持っているわけではない。このことが「物語の死」を示唆していると見なすのは、あながち外れているとも思えないが、どうだろう。

要するに、検索エンジンが「物語」を破壊するのではないか、ということ。まず、手始めに、原因と結果の間の「プロセス」が壊されていると。やがては、「原因」も「結果」も何か別のものになるんじゃないか。今は、そこまでいく前の段階で、結果的に、原因から結果へ短絡している状態なのではないか。これを乗り越えると、今までとは全く違った風景がそこには広がっているのではないか。
ま、そんなふうになるまで、どのくらいの時間が掛かるかも分からないし、そもそも僕自身、世界がそういうふうになって欲しいと考えているわけでもありません。(古いタイプの人間なので。)単なる、僕の勘違い、でしかないかもしれませんし。
そういう「解釈」というか「物語化」を、僕の脳内でしてしまいましたよ、という話でした。

*1:話は逸れますが、高校時代の数学の先生が、幾何学を例にして、「今学んでいる事柄は、図形が平面に描かれていることを前提にしている限りにおいては正しいけれど、仮に球面に描かれていたとしたら、必ずしも正しいとは言えないよ。真理というものは、巨大なピラミッドのような構造で絶対的なものだと考えがちだけれど、野原ににょきにょきと何本も生えている木みたいなもんだ、と思っていたほうが良い」と言っていたことに、ものすごく感動したのを思い出しました。