「死ぬこと」「殺すこと」「生きること」

朝起きて「あぁ、今日も生きていて良かった」なんて、考えてみれば思ったことがない。「あぁ、今日も目が覚めちまった。まだ生きてやがる」とは、思ったことがある、結構本気で。


「自殺したい」といちばん真剣に考えていたのは、小学生時代だった。多分、3年生か4年生くらい。あんまり思い出したくもないのだけれど、いじめとかいろいろあって、なんだかんだで「死ぬ」という選択肢が魅力的に思えたんだろう。でも、今となってはよく分からない。
でも、結局、死ななかった。
2段ベッドの柵にタオルをくくりつけたら死ねるな、その感じはどんなふうなんだろう、と自分の首にタオルを引っ掛けてみたりもしたが、死ななかった。
怖かったのだろうか? 怖かったのかもしれない。
タイミングが悪かっただけかもしれない。
いじめに立ち向かうのは難しい。僕は立ち向かえていなかったと思う。どうすればよかったのだろう? 今でもよく分からない。
「逃げる」というのは、「学校から逃げる」ということだけではない、と思う。そういう具体的な形で逃げることができていれば、もう少し楽だったのだろうか。あのとき、僕は、自分の頭の中に逃げ場所を作っていた。それはそれで、嵐をやり過ごす方法ではあった。
僕を生かしたものを、あえて外に求めれば、「あの映画(あるテレビアニメの劇場版)を見に連れて行ってもらう約束があったな。死ぬ前にあれを見ておきたい」というものだった。だから、その映画は命の恩人のはずなんだけれど、タイトルもどんな内容だったのかもまったく覚えていない。とにかくそんな風にして、僕は、だましだまし、その場その場をやり過ごしてきたのだった。
そのうち「自殺したい」という気持ちは、だんだん薄れていったのだけれど、それは、僕の体が成長して、いじめのターゲットには向かなくなってきたせいもあった。それでも、なくなりはしなかったけれど。


「殺したい」という感情が、「自殺したい」という感情と入れ替わるように、僕の中に湧いてくるようになった。その気になれば「やれる」だろう、とも思っていた。中学生くらいのときか。
「殺すなんて、バカらしい」という考えも同時に存在していたけれど、時には「殺したい」がそれを上回っている、と感じることもあった。
でも、結局、殺さなかった。
殺すのが怖かったのだろうか? そうかもしれない。
でも、運とタイミングが合わなかった、というだけのような気がする。


「あぁ、今日も目が覚めちまった。まだ生きてやがる」と思うようになったのは、高校生のときだったか。あの頃は、なんだか全てのことが億劫になりかけていたような気がする。無気力というわけではなかった、と思う。むしろ必死だったのかもしれない。必死すぎたのかも。
この頃になると、いじめというものは影を潜めている。じゃあ、僕は乗り切ったのだろうか? 困ったことに、そうではなかった。
「いじめられた」という記憶は、僕の人間関係の作り方に大きな問題を残していた。他者と接するのにはどうしたらいいのか、全て手探りだった。
心を開くことができない、ということが問題だったのではなく、心を開きたいのに、誰に、どのタイミングで、どんなふうに開けばいいのかが、分からなかった。そういうことを一から順に、一つひとつ確認しながらやっていくのだけれど、いつ自分が失敗するか、びくびく(緊張)しながら日々を過ごすのは、疲弊する。
他人のことなんてどうでもいいのに、と心の底では考えていながら、その他人との関係に疲弊するのは、我ながらバカだと思う。
でも、他に選択肢を知らなかった。この頃になると、「死ぬのは悪いことだ」という倫理観がかなり内面化していたせいかもしれない。
だから、毎日神経を磨り減らすような思いをしながらも、とにかく生きていた。
「殺す」というオプションは、タイミング次第でありだったかもしれないが、少なくとも、殺したいほど「憎む/愛する」ことなんてありえなかった。表面的な付き合いだけでも精一杯なのに、そこまで他人にのめり込むなんてまっぴらだった。
今思えば、リハビリ期間だったかな、という気がしないでもない。


…と、ここまで書いてきたことは、僕の主観による自己像なので、僕の周りに居た他の人からは、全く違うように見えていたのではないかな、とも思う。周りから見れば、そう暗くもない少年時代だったんじゃない?と言われるかもしれない。まぁ、分からないけど。


今はどうだろう?
人間関係を作るのはやっぱり苦手だ。でも、10代の頃に比べれば、他人と腹を割って話せるようにもなったし、腹を割って話していい相手かどうかも区別がつくようにはなった。
「死にたい」ともあんまり思わない。「今、俺が死んだら、困る人が居る」という現実のせいかもしれない。たぶん、そうなんだろう。
「死ぬのが怖い」ってことも、実はあんまり思ってないかもしれない。たぶん、自分が死ぬことは怖くない。怖いのは、「自分以外の(とくに僕にとって大切に思える)人が死ぬこと」だけだ。最近そう思うようになった。
「ふつう」ということがよく分からない。昔の自分は「ふつう」ではなかったと思う。今は「ふつう」になったのだろうか? 「ふつう」のふりをしている自覚はないけれど。


自分の内面を探ったり、過去を振り返ったりすると、決まって「いじめられた」という記憶が付きまとう。もう、自分でもウンザリなのに、きれいさっぱり忘れてしまいたいのに、そこから逃れられない。
「いじめられた」側の内面なんて、そんなに綺麗なものじゃない。内にこもるにしろ、外へ攻撃的になるにせよ、赤の他人から見たら、かなり醜悪なものだ。自分でもよく分かっているからこそ、上手く思い出せないほど、記憶の底に沈めてしまっている。
「いじめ」の害悪は、そういうもんだと思う。
自殺したり、相手を殺したりする人は、その自分の心の醜悪さに耐えられなかった、純粋な心の持ち主、なのかもしれない。
僕は純粋な心の持ち主ではない。
それは永久に失ってしまった。
いや、捨ててしまった。