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先日、ある友人と久々に電話で話をしていて、

その友人は、昔一緒にバンドをやってたこともある人で、今東京に住んでいる30代前半の人なんですが、その人が今度また新しいバンドをやる、と。で、そのバンドのボーカルは17歳のそんなに有名でないアイドルの女の子なんだ、と。というか、バンドそのものがその女の子を売り出すためのもので…、みたいな話らしい。なんでこの人はそういう人たちと知り合うんだろうか、とか疑問に思いながら、そう言えばこの人って昔から、そういう浮ついた業界の中やその周辺にフワフワと関わっていたよな、と思い出し、納得。まぁ、1か2ぐらいの話を10にも100にも聞こえるように話す人なので、多少割り引いて聞いておかないといけない、ということもあります。ともかく、元気そうで何より。
で、なんでも、その女の子に尾崎豊の『十七歳の地図』という曲を唄わせよう、という話があるらしく。ただ、その曲の歌詞が今のリアルな17歳から見るとズレがあるんじゃないか、という意見が出されて、歌詞を少し書き直そうとしているとか。いや、それはやめておいた方がいいんじゃない、と僕は無責任に言っておいたのですが、まぁ、それで、尾崎豊について少し考えた。


先に断っておくと、僕は尾崎豊の良い聴き手ではなかった。というかファンではなかった。彼を知るきっかけは、彼の死だった。高校生のとき。
今になってみると、10代のときに10代の尾崎の曲を聞けたのは、自分にとっては良かったかな、と思う。10代の尾崎の曲に「共感」できるのは、10代の特権だと思うのだ。

十七歳の地図

十七歳の地図

彼のファーストアルバムは、同級生からCDを借りて、聴いた。そうそう、当時はカセットテープにダビングしていたんだった。
90年代初頭に、10代のど真ん中を過ごしていた僕にとって、尾崎豊という存在は、既に十分時代遅れのものだった。ダサくて、無様で、イタイ音楽の代表みたいなものだった。だけど、いや、だからこそ、僕の心に響くものがあったかもしれない。
想像するに、彼がデビューしたときにも、同じように彼は時代遅れの存在だったのではないか。でも、その時代に10代を過ごした人間に、尾崎豊が何がしかの影響を、引っかき傷を残したのだとしたら、それは、その時代に乗り切れない「痛さ」のせいではなかったか。決して「時代を超越していたから」ではない、と思う。
だって、尾崎を聴くとき、僕は決まって、なんだか少し恥ずかしいような気持ちを持ってしまうからだ。
そういう「気恥ずかしい時代遅れ感」が、ある意味で彼の音楽に普遍性を与えているのかもしれない。そして、この「普遍的な時代遅れ感」という一見矛盾した感覚は、実は少なくない人に共有されているのではないだろうか。
時代の変化は早い。ついていこうとするなら、死に物狂いで頑張らないと。立ち止まって考えてる暇はない。「でも、それでいいの?」と考える猶予を与えられた唯一の時間、それが10代なんだと思う。まぁ、それがモラトリアムってやつなのか。誰もが一度は通る道、という気もする。
「それでいいの?」という疑問は、実際には様々な種類がある。けれど、それが何であれ、正面から向き合い、愚直に答えようとしたのが10代の尾崎豊の音楽なんじゃないか。
僕はそう思う。
だから、10代の人間には、10代の尾崎の歌を唄うことができるという「特権」があるのだ。
2年半くらい前に、尾崎豊のトリビュートアルバムが出た。
BLUE~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI

BLUE~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI

この中に、17歳の宇多田ヒカルの唄う『I LOVE YOU』が収録されている。「10代の特権」を余すことなく生かしきった、無二のテイクがそこにはある。
この曲の「何もかも許された恋じゃないから」というフレーズには、明らかに支配と被支配の関係があり、それへの抵抗が込められている。身も蓋も無い言い方をすれば、「大人」は「子ども」を抑え付け、「子ども」はそれに反抗する、ということ。
大人から見れば当たり前のことだ。子どもに「何もかも」を許したら、危なっかしくてしょうがない。しかし、子どもにとっては、それは切実な問題だ。それこそ命を賭けても惜しくないほど。
だから、この曲は、本当は10代でなければ唄ってはいけない曲なのだ、と思う。それは『十七歳の地図』でも同じことだ。


最初の話に戻ると、今の10代のリアルと尾崎の音楽との間にズレがあるのは、当然のことだと思う。でも、それは、理解されえないズレではないはずだ。
せっかく17歳の子に唄ってもらうのなら、そのまんまでやった方が絶対オイシイのに、なんて大きなお世話で思ったのでした。