「物語」に感動するかどうかには、その物語が実話なのかフィクションなのかは、あんまり関係ない。

前回の記事を書いてから、少しクールダウンしていました。あまりにも感情が昂ぶってしまった(頭に血が昇ってしまった)ので、「少し頭を冷やせ>自分」と。
でも、他の人のブログは巡回してまして。で、こちらの記事を読んで。→ 『メモ - 創作にすれば解決するかも』
こちらの記事は、「ブログで“自分の限られた体験”から、普遍的なテーマを語るときは、あらかじめフィクション化しておけば、反感や批判を回避できるのではないか」ということをおっしゃっている、と思ったのですが、それに対して、僕はブクマコメントに次のように書きました。

たしかに。でも、そうなると今度は「物語としての質」が問題になる。実際にやるとなると、結構難しそう。

少し言い換えると、「物語」として文章を書くと、記事の内容云々に加え、物語として面白いかどうかという別の軸の評価を受けることになるんだろうな、それってなかなかキツそうだなぁ、ということ。
その後、この記事を書かれたaozora21さんが次のようなブクマコメントを残されていて。↓

↓ やはりだめみたいです<フィクション http://d.hatena.ne.jp/iris6462/20061024/1161676586 いい内容なのに「釣り」だと思われることもありそう。置き場所によるかなあ…

紹介された記事を読んでみたのですが、これ→『ウパ日記 - 虐められていても家族は気付かない』
いや、かなりいい内容です。別に「釣り」とも思わなかったな。まぁ、「ネタ」ではあるんでしょうが。読みながら、ちょっと、心が動いた。
これが批判されるとしたら、「以上、全てフィクションでした。」という最後の一文が唐突過ぎて、悪ふざけしすぎ、と思われてしまうからではないでしょうか。結果的に、この一文が「物語」としての面白さを損なっている、ようにも思えます。ここら辺の書き方を違ったものにするか、いっそ書かないでいてくれればよかったのに。
「批判回避のためのフィクション化」という点から見れば、失敗かもしれませんが、その批判が、「内容」に対する批判ではなく、「表現方法」への批判になっているとすれば、「フィクション化」はダメ、とは一概には言えないかな、と思います。いや、難しいんですけどね。


そして、話は唐突に変わるのですが、僕は『ウパ日記』さんの記事を読んでいて、乙一の『ZOO』という短編集に収録されている『カザリとヨーコ』という作品を思い出しました。僕が読んだのは単行本ですが、こちらの文庫版にも入ってます。↓

ZOO〈1〉 (集英社文庫)

ZOO〈1〉 (集英社文庫)

ちなみに、映画は観てません。
『カザリとヨーコ』は、双子の姉妹とその母親の物語なのですが、姉妹の一方(主人公)が、もう一方と母親から執拗ないじめを受けているんですね。今時の「児童虐待」と言うよりも、ちょっと古典的なまでの「いじめ」と言った方がふさわしい感じ。あれだ、シンデレラをもっとひどくした、みたいな。
しかし、この主人公には、シンデレラと違って魔法使いも王子様も現れることはなく、自らの力で事態を打開するしかないわけです。その過程があまりにも素晴らしく、僕は感動してしまった。いや、心が震えた。(結末を「後味が悪い」と言う人も居るでしょうが、僕にはむしろ爽快でした。)
この作品に、なぜ僕がそこまで感動してしまったのかというと、主人公の「いじめ」体験に自分の体験を重ね合わせて見てしまっていたから。感情移入しすぎ、というか。
つまり、どうも僕は「いじめ」の描写に弱いらしい、と。
それで、『ウパ日記』さんの記事にも強く共鳴してしまった、と。
この「共鳴する(感動する)」ということには、それがフィクションであるかどうかは関係ない、と思うのですね。僕にとってはどちらでも同じなんです。
というか、そもそもフィクションとノンフィクションの境目自体、かなり曖昧です。それが、文章であれ、映像であれ、「人の手によって切り取られ、加工されている」という点においては全てフィクションの要素を含んでいるはずです。
だから、『ウパ日記』さんの記事が書かれているとおりフィクションであれ、または実話であれ、そんなことはどうでもいいんですよ、僕にとっては。重要なのは、そこで「僕の心が動いた」ということだけ。


逆に、実話であってもフィクションであっても、僕の心が動かなければ、それこそどうでもいい、ということになりますね。
「物語」としての質が全て、なんて言うと自分の首を絞めてしまうので言いませんが。