僕は善意の人なんだろうか?

どうなんだろう?
なんか、そう思われたいかのような記事を、今まで何度も書いてきたような気がする。自分が善良な人間である、ということ。そして、凡庸な人間である、ということ。自分の醜悪な部分を表に出したくないと思っている、ということ。そいうことが隠しきれていないぐらい凡庸な人間である、ということ。
ブログという場が、自分のそういう部分に向き合うべき場であるのかどうかは、よく分かりません。(それは、書き手がそれぞれに判断するべきことなんでしょう。)
でも、向き合った方が、面白いブログになるような気はします。というか、「表現」を標榜するならば、自分に向き合わなければ何も生み出せないものなんだ、と思います。
思いますが、それがしんどいのも確かで。
『弁償するとき目が光る :罪なき者の罪深さはどうにもならないからいっそ死んでくれわたしのために』
↑こちらの記事を読んでから、ぐるぐる頭の中にいろんな考えが回っていて、全然まとまっていないのですが、もう少し書いてみます。
エイズの末期だという元風俗嬢のブログ」は僕も見ました。そして、あぁ、これには僕は何も言うことができないな、と思いました。そして、そちらのコメント欄を読みかけて、やめてしまいました。そこにあるはずの悪意や善意の書き込みに、僕は耐えられないだろう、と感じたからです、たぶん。
そこにある憎悪や嫌悪や同情や憐れみなど、それらは全て、僕の心の中にも確実に存在しているものです、たぶん。というか、僕の中に存在する、僕が見たくないと思う様々な感情が、そこに剥き出しになっている。それを読むことによって、いやでもそれに向き合わなくてはならなくなる。醜悪な自分自身の「影」と向き合わなくてはならなくなる。それはいやだ。だから、逃げ出した。そういうことなんでしょう。
上記のリンク先の記事を書いたyukiさんはとても優しい人なんだと思います。彼女は「呪う」と書いているけれど、呪われることによって救われている自分というものを、僕は読みながら感じてしまった。そして、そんな風にして救いを感じてしまう僕自身の醜悪さが露わになってしまって、結果的に僕は自分自身に向き合うはめになりました。だから、yukiさんは優しい、と思うのです。そんなことを意図して書かれたものではないとは思うけれど。
そんなことを言いたくなって、この文章を書きました。