ワーキングプアはどうでもいいけれど、生活保護制度の話。それと中間的な制度の提案。

NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」
今日、初めて上記のリンク先の記事を(きちんと)読みました。ちなみに、NHKの番組は実は見てません。
うーん、なんつーか、まぁ、そういう意見があるのも理解はできるけどね、って感じです。

たとい格差が拡大しようとも、一定の不公平感は生まれるだろうが、その拡大そのものが問題なのではない。「不平等は、社会の他の構成員の不利益を招かない限りにおいて、是認される」というロールズの正義論を裏返すなら、基準以下の貧困層が増えていくことが問題なのだ。

という意見には、僕は概ね賛成ではあります。(ロールズが一体誰なのかは知りませんが。)
ただし、この記事の中で触れられている生活保護関連の話には、ちょっと引っかかるところがあるので、少し書いておきます。
仙台市で仕立て屋を営む方の世帯がどう見ても、生活保護の水準以下の生活を強いられているのに、「妻の葬儀代」として100万円の貯金があるために、生活保護が受けられないでいる、ということがNHKの番組内で取り上げられていたそうなのですが、このことについて、上記記事内では

北九州市がコスト最優先の数値目標までもって申請を抑制してついに餓死者まで出したように、この国の生活保護行政は徹底して生活保護を受けさせないようにできている。100万円の貯金の存在はそれだけで行政側が難色をしめす絶好の理由になる。

と、評されています。これ自体は間違いとは言えないのですが、保護申請すらさせてもらえない(と報道されている)北九州市の問題と、この「100万円の貯金」の問題を同列に論じるのは、僕には違和感があります。また、「生活保護行政」という言い回しも、この問題が「制度」自体の問題であるのか「運用」の問題であるのかを、曖昧にしていると思いました。
僕は、北九州市の問題は「運用」の問題であり、「100万円の貯金」の問題は「制度」自体の問題だと考えます。これは、きちんと分けて論じるべき話題だと思いますね。
今の「制度」では、「100万円の貯金」があれば、生活保護を受けることは難しいでしょう。申請しても却下される可能性が高い。生活保護は、他に取るべき手を全てうって(検討して)、それでもダメなときの最後の手段である、という建て前で運用されています。そして、その「制度」は、たとえ「葬儀代」であっても、その貯金を生活費に当てて使い果たしてからでないと、保護を受けることは難しい、というものなのです。
では、この「制度」をもっと柔軟なものに変えることは可能でしょうか?
僕は、それも難しい、と考えています。それは、何も国が緊縮財政に走っているから難しい、というだけではなく、法律の理念的に難しいだろう、と思うからです。
生活保護は、保護を受ける人に対して金銭を「支給」します。「貸付」ではありません。そして、財源は税金です。どのような名目であっても、「100万円の貯金」がある人に金銭を「支給」することが認められる(つまり、世論がそれを支持する)とは、僕には思えないのです。
いや、このケースに限っては、世論の支持を得られるかもしれません。(それこそ、テレビで取り上げられたおかげで、注目を集めたし。)しかし、これを認めることによって、他のケースをも認めなくてはならなくなることも忘れてはいけません。それでも別に構わないよ、と言うならいいのですが、ある意味で「余力」を残している人に保護を受けさせることを、どのくらいの人が本当に許容できるのでしょうか? 僕には疑問です。
ありうるとすれば、「○○万円までは資産があっても、生活保護を認める」ということにするか、さらにそれに「年収(または月収)が○○万円以下ならば」という条件を付けるか、といったところでしょうか。それとも、もっといいアイデアがあるんでしょうか。


僕としては、この問題については、生活保護とは“別の”制度なり仕組みなりを作って対応するしかないのではないか、と考えています。
ちょっと話がズレますが、僕は『分裂勘違い君劇場 - 精神的な負け組であることが、負け組であることの唯一の定義だ』という記事の中の「唯一、精神的負け組だけが、真の負け組なのだ。」という言葉に触れたとき、(その記事の趣旨ともまたズレるのでしょうが)あることを思いました。
生活保護という制度は、ひどく残酷なものなんだな、と。
その人を、精神的に「負け組」に追い込んでしまう(つまり真の「負け組」にしてしまう)ところがこの制度にはあるかもしれないな、と。
この「100万円の貯金」のケースで言えば、「妻の葬儀代には手を付けない」というのが、この人の精神的な拠り所の一つになっていると思うのですが、生活保護を受けようとすると、それを捨てなくてはならない。現にそのようにしている人も居るはずです。しかし、そうすることによって、その人の心の支えが失われてしまう、そして、虚無感や無力感がその人を捕らえてしまう、そういう側面が、少なからずあるように思えるのです。
もっと言えば、「生活保護を受けたいほど、生活が苦しくなってきている」→「しかし、現状では、もっと多くのことをあきらめないと、生活保護を受けられない」→「生活がもっと苦しくなる」→「生活保護を受けるために、何かをあきらめる」、という図式があると思うのです。この「生活保護を受けるために」という発想が出てくることによって、生活保護を受けることが一つの目的化してしまう。そのために、生活保護を受けた後の生活の立て直しが、精神的な面でも難しくなってしまう、そういうことがあるんじゃないか、と。
そして、「支給」というスタイルも、保護を受ける人の無力感を大きくしている面があるのではないでしょうか。その後の生活の安定を考えると、返済の必要のない「支給」の方が望ましい、とは思いますが、「施し」は受けたくない、一時は助けてもらったとしてもいずれは返したい、そういう気概を持つ人も居るはずです。そういう人の自尊心を損なっているのではないか、と。


だから、たとえ、形式だけにせよ「貸付」というスタイルの制度ができないか、と思うわけです。
年収ないし月収が一定の水準以下になってしまった場合に、生活保護の水準程度の貸付を行う。無金利に近い低金利で、できれば無担保がいいけれど、貯金などの資産がある場合は、それを担保としてもいいかもしれない。そして、生活を立て直し、自立した後には、可能な範囲内でそれを返済していく。生活が立て直せない場合には、現行の生活保護に移行するが、支給額が一定の割合で減額される。(実質的に、生活保護費の中から返済するという形。) そんな中間的な制度は不可能でしょうか?
現に、生活保護を受けている人も、そちらの制度の方がいい、という人も居るかもしれないし、これから受ける人にはどちらか選択できるようにすれば、そちらを選ぶ人も一定数居るんじゃないでしょうか。
あくまでも、今のところ、机上の空論なので、どの程度効果的であるかは分かりませんが、検討する余地はあるんじゃないでしょうか。厚生労働省の方、どうでしょうかね?