弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く

殺人事件の報道を見ていると、いろんな意味で絶望的な気分になることがあります。そんなことを言っても、僕自身は当事者ではない以上、所詮は他人事でしかないというのも、まあ、その通りなんですが。
でも、「『誰』が『誰』を殺しているのだろうか?」ということを考えたとき、何か出口の見えないトンネルに入り込んだような感覚になるのは、それはそれで間違いなくあることで。


結局は、「社会的弱者が肉体的弱者を殺している」ということなんじゃないか、と。
肉体的弱者というのは、子どもや女性や老人など。多数対1という状況ならば、誰もが肉体的弱者になりえますが。
では、それを殺す者は、単に肉体的強者であるだけかというと、どうもそうは思えないんです。彼・彼女らの多くは、社会的・精神的弱者であったり、またはそう思い込んで(思い込まされて)いたりするのではないか。
家族の中で孤立している少年(肉体だけは大人なみ)、外国人労働者(不良外人)、生活保護受給者(近所では評判の“出来の悪い”母親)、失業中の中年…、等々。もちろん、彼・彼女らが「弱者」であったとしても、犯した罪の重さが変わるわけではありません。けれども、僕には、敵討ちを奨励するかのごとく厳罰化を叫んだり、犯人への憎悪をかきたてたり、過剰に危機意識を煽って、自分たちの「仲間」以外の者を必要以上に警戒したりするよりも、「社会的弱者」を作らない(減らす)ことや、その人たちが追い込まれないようにすることを考えることの方が、よほど大事に思えます。
いや、社会的弱者を無くすことなんて出来ませんよ。それは分かってます。でも、そんなふうな意見が全然見られないのでは、息苦し過ぎる。
だって、いつ自分が「社会的弱者」になってしまうかも分からないし。自分が殺人犯になる可能性を1mmも考えたことのない人には、理解不能なことかもしれませんが。