人生を変える「物語」は、「泣ける話」でも「いい話」でも「感動できる話」でも「人を幸せにする話」でもなくて、「人を狂わせる物語」だ。

最近、「自己啓発」っぽい内容の「感動的なストーリー」がWEB上で話題になったようで、僕としてはその胡散臭さとか危険性について語る気はないんですけど(他の人たちが既にやってるし)、思いついたことを一つ二つ。あえて、リンクはしません。


まぁ、なんつーか、全然面白くないですね、話自体が。息子がいじめられていることに悩む母親に対して、カウンセラーっぽい人がアドバイスしていくんですが、どんどん問題がすり替わっていって、なんか息子がいじめられてる原因が、母親の父親(息子から見るとお祖父さん)に対する屈折した感情や接し方にある、って感じになって、えーそりゃないでしょという展開。しかも、そのカウンセラーのアドバイスを聞き入れて、母親が実践していくと、父親との関係は良好になるわ、息子のいじめはなくなるわでいいこと尽くめ。はぁー。
まぁ、「泣ける」って人の気持ちは、分からなくもないですよ。気の持ちようで人生は劇的に変わる、ってのもそう思える人にはそうなんでしょう。そこのところは否定しませんよ。感動した人がセミナーやカルトにはまろうが、僕にはどうでもいいことですし。


でも、昨日の日記に僕は「人生なんて、たった一枚のレコードで簡単に変わる」と書いたのだけれど、「人生が変わる」ってことは、「いい話」に共感して前向きになろうとかそんなことじゃないです。
人生を変える「表現」ってのは、それに触れたことによって、「学校なんて行くのやめた」とか「会社なんか辞めて、俺は漫画家(パン屋でもバンドマンでもなんでも可)になる」とか「俺のやるべきことは現金輸送車を襲うことだ」とか「好きなあの娘に今すぐ告白しなくちゃ」とか何でもいいけれど、そう思わせて、それを実行させてしまう(←ここ重要)という力を持っているんです。(『ファイトクラブ』を見て、それを実際にやってしまう、というのも勿論あり。バカだけど。)
「人生を変える力を持った表現」は、けっして人を幸福にするようなもんじゃない。衝撃を与えて、狂わせてしまうもの。今この手の中にある幸福なんて要らねぇ、そう思わせるもの。いや、幸福とか不幸なんてどうでもいいから、とにかく「やらなくちゃ」と思わせるもの、なんです。
その結果、悲惨なことになってしまっても、それはしょうがない。それが「人生」なんだもの、ってか。でもでも、「いい話」に錯覚させられて、錯覚していることにすら気付かないでいるよりは面白い人生だと思うし、楽しい人生なんじゃないでしょうか。不幸かもしれないけど。