僕が人を殺したかった頃

「『人を殺してはいけない』を否定しない」とか「人を殺したくない」とか最近いろんなところで書きまくってきたのですが、じゃあ僕が「殺したい」と思ったことが一度も無いかと言えば、そんなことはないです。というか、一度どころで済むような話じゃないですね、きっと。


それは10代の頃の話。「殺したい」と思った理由は、もう思い出したくもないのですが、まぁ、いじめとかそんなこと。「殺したい奴リスト」は実際には書かなかったけれど、頭の中にはあったな、確実に。あの頃は、殺す理由とか動機とか山ほど抱えていたような気がする。
それじゃあ、なんでそのときに僕は「殺さなかった」のか?
「人を殺してはいけないから」? 「命は大切だから」? 「法律で罰せられるから」? 「地獄に落ちるのが怖かったから」?
うーん、どれも違うな。漠然とした「怖さ」はあったかもしれない。それは宗教的なもんではないけれど。高いところが怖いとかそんな感じかも。
たぶん、一番大きな理由は「運が良かったから」。あるいは「タイミングが無かったから」。けっして「理性が感情にうちかった」とかそんなんじゃない。


ちょっと、極端な言い方をしますが、人が人を殺してしまうのに必要なのは「運」と「タイミング」なんじゃないかと思います。それさえあれば、憎しみとか絶望とか「殺したい」という強い欲求はそんなに必要ではない、と。自殺でさえそうなんじゃないかと思うときもあります。と言うよりも、人間の行動は、そのほとんどが「運」と「タイミング」で決まっているんじゃないか。もちろん「意志」というものも大事だけれど、そのわりには、この人生にはしたいと思ったことができなかったり、したくなかったことをやるはめになったりすることが多いし。(生きるためにやりたくないことをやるということだけじゃなくて、人は自分の意に反する行動を取ってしまうことがあるよね、ってことです。)
今の僕がここに居るのは、「運」と「タイミング」のおかげでしかない。


だから、僕は、メディアがこぞって殺人犯を叩いているとき、「あぁ、この人たち(メディア)は、自分が人を殺す「運」も「タイミング」もたまたま無かったラッキーな人間でしかないってことが分からずに、人を殺す「運」と「タイミング」に出会ってしまったアンラッキーな人間を『正義』や『善意』でもって吊るし上げるんだな」と思ってしまうのです。
一応、断っておきますけど、僕は犯罪を肯定しませんし、罪を犯したらそれに相当する罰を受けなくてはならない、と考えています。でも、犯罪者が悪人だから罪を犯したのだとする意見には疑問を感じます、ということ。(逆に、悪人だからといって、必ず罪を犯すとは限らないし。)それに何よりも、罪を裁くのは裁判所の仕事であって、メディアの仕事ではないんです。


と、話がずれましたが、僕が「殺したい」と思っていた10代の頃から、気持ちが変わってきたのは、そう思っていることに疲れてきちゃったからです。「殺したい」という気持ちはやっぱり憎しみからくるわけですが、憎しみって何も生み出さないんですよ。少なくとも、生身の僕にとってプラスになることを。*1
だったら、人を嫌ったり憎んだりするよりも、好きになる方がずっといいです。「好き」という気持ちは苦しいときもあるけれど、僕をダメな人間から少しだけマシな人間にしてくれるような気がします。それが積み重なっていけば、だいぶマシになれるかも、なんてまた胡散臭いことを書いてしまいました。
とはいえ、僕がこの先にどんな「運」や「タイミング」に出会うか分かったもんじゃない。それは忘れちゃいけないな、と。

*1:そう言えば、後にバンドをやってたときに「俺は16歳のときに人殺しになりたかったがどうした」みたいな歌詞を書いたな。これは、ある意味でプラスだった。でも、これだけ。