「一時の感情」について

先日、トラックバックをいただいた「弁償するとき目が光る : なぜ、人を殺してはいけないのか→いや、いけなくありません「いけない」というのはまやかしです」という記事のコメント欄で、僕とfromdusktildawnさんとのやり取りがあって、fromdusktildawnさんのコメントに対して、レスポンスを返そうと思ったら、以下のように長文になってしまったので、こちらに書いておくことにします。できれば、あちらの記事・コメント欄を読んだ上で、お読み下さい。


で、僕の以下のコメント↓

Commented by 23mm at 2006-06-21 23:36 x
さて、そのうえで、もう一度僕の言いたかったことを整理してみたいと思います。(ひとさまのブログで、くどくどと書いて申し訳ありませんが。)
fromdusktildawnさんがおっしゃるように、僕にも僕にとって「人間のクズみたいな腐った人間と、すばらしい愛すべき人間たち」がいます。「難破船」に乗り合わせたら、当然愛する人たちを助けようとするでしょう。(本当は、その場になってみないと分からないと思うところもありますが、現時点では「サイコロを振る」ようなことはしないと思います。)
けれども、僕は、自分にとって「クズ」としか思えない人間の命でも、それが失われるときには「苦々しく思う」のです。それはもう、僕がそういう人間なんだってことなんです。この感情は、もちろん愛する人の命が失われたときの感情と同じではないけれど。
そして、できれば「苦々しく思う」回数を減らしたいし、それができない事情があるときも、全面的に肯定できない(けれども認めざるを得ない)という葛藤を持っていたい、そう考えます。
僕は、そういう偽善的な人間です。

これに対して、fromdusktildawnさんが

Commented by fromdusktildawn at 2006-06-22 05:54 x
その場の思いつきで書いているので、そんなに深く考えてはいないのですが。。。

「僕は、自分にとって「クズ」としか思えない人間の命でも、それが失われるときには「苦々しく思う」のです。」

その時の気分とか、前後の文脈で、卑怯で下劣なクズとしか思えない人間を、それでも、いとおしく感じることもありますよね。苦笑いしながら、それを丸ごと人間として受け入れたくなる、凪のような心理状態。
逆に愛すべきいい人間たちの魅力や善良さや豊かさを、シニカルに眺めたくなる気分のときだってある。それはそんなにあがめ奉るほどのものでもないなと。
そして、その時の一時の感情に流されて、人を傷つけたり殺したり、取り返しのつかないことをしてしまってから、慚愧懺悔にのたうち回ることになる。でも、それでもなお、「一時の感情」を排除するようなことをしてはいけないと思うんですよ。

Commented by fromdusktildawn at 2006-06-22 05:54 x
人の心は揺れているのが常態なんだから、人間には一時の感情以外のものはないわけで。もちろん、固定的な自分の信念に基づいて行動する、というのは、それはそれで大切なのだけれども、信念の名の下に、自分の心の叫びに「一時の感情」というレッテルを貼って抹殺することほどの愚行はないと思うのです。それをしたら、自分が単なる信念という名のプログラムを実行するロボットに過ぎないわけで。
動かしがたい個別具体的な現実に直面したとき「個別具体的な人間が実際のところどう感じているか」という心の叫び、ホンネの部分を組み入れていない倫理には、現実を動かす力を感じないのです。

というコメントを返してくれました。それに対するレスを以下に書きます。


「ホンネの部分を組み入れていない倫理」=「人を殺してはいけないという倫理」と考えてよいのでしょうか? そうであるなら、fromdusktildawnさんのおっしゃることにかなり同意できるような気がします。
僕が、「人を殺してはいけない」を否定しないのは、上の(ここに引用したよりもさらに前の)コメントにも書いたように、その方が僕にとって都合がいいからで、単に僕がそう思っているからという以上の意味はありません。逆に言うと、僕はこれが普遍的な倫理だとは考えていないので、「『人を殺してはいけない』なんてことはない」という考えも否定しません。僕にとっては、「人を殺してはいけない」は倫理ではなくて、「俺を殺さないでくれ」という願いと、「俺は人を殺したくない」という(また違う種類の)感情を、別の表現で言い表した言葉なんです。
そして、fromdusktildawnさんが言われるように、実は、僕のこの感情も「一時の感情」に過ぎなくて、「信念」とか「信仰」とかついそんな言葉を使ってしまいましたが、それを上回る「殺意」という「一時の感情」が湧きあがれば、「人を殺してはいけない」という言葉を容易にどぶに投げ捨ててしまうでしょう。要は、その時々の感情のせめぎ合いであって、「今」の時点では、「人を殺してはいけない」という「一時の感情」を僕は持っていますよ、ということなんです。
それから、「動かしがたい個別具体的な現実に直面したとき『個別具体的な人間が実際のところどう感じているか」という心の叫び」についてですが、それがどんな「個別具体的な現実」なのかにもよりますが、当事者ではない人間としては「全面的には肯定できない、けれども認めざるを得ない」(上に書いた「全面的に肯定できない(けれども認めざるを得ない)」は間違い。「は」が抜けてしまって、これでは意味が逆になってしまう)と思うしかないわけです。これは「頭から否定することもできない」ということでもあります。さらに、僕が当事者として「個別具体的な現実に直面」したときに、「個別具体的な人間」としてどう思うのかは、それはその時になってみないと分からないよ、というのが本音です。
何が言いたいのかというと、僕は、「一時の感情」を排除するような倫理なり信念なりを持っていないし、それを他者に押し付けようともしていないし、したいとも思わないし、むしろそんなことは嫌いだ、ということ。もし、僕が自分の意見を押し付けているように感じる人がいて、不快に思われた人がいたら、その点については謝りますし、そういう意図は無いとはっきり言っておきます。
というわけで、fromdusktildawnさんの「自分の心の叫びに『一時の感情』というレッテルを貼って抹殺することほどの愚行はないと思う」という意見には、僕は同意します。


(2006/6/22追記)

はてブで、fromdusktildawnさんに素敵なタイトルを付けていただいて、それは嬉しいのですが、ブログタイトルが入っていないのは少し気になったので、自分で編集しました。どっちでもいいんですけどね。