「なぜ人を殺してはいけないのか?」を素朴な論理を使って考えてみる。

これ→指輪世界の第二日記 - なぜ人を殺してはいけないのか?
まぁ、一理あるっちゃあるかもしれませんが、こういう答えでは、みちアキさんは納得できないですよね。やっぱり→http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060619
僕にとっても、みちアキさんとはちょっと違う観点からかもしれませんが、違和感を感じてしまう記事ではありました。なんというか、頭の中で理論・理屈をもてあそんで書かれたような印象を受けて、実感が伴っていない文章のような気がしてしまいました。


じゃあ、お前はどう考えてるんだよ、と言われたら、それに答えなくちゃいけないんでしょうね。
この問題は、以前別ブログでも書こうとしたことがあるんですが、その時はどうもうまくいかなかった。それから少し違うことを考えたりしているので、それを書いてみます。


たしか6月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』という番組(よみうりテレビ制作)に、ドキュメンタリー作家の森達也氏が出演してて、話の流れの中でこういうことを言われました。
「人間が宗教を必要とするのは、自分がいつか必ず死ぬということを知ってしまったから。死の恐怖を和らげるために、死後の世界を保証してくれる宗教にすがるんだ」と。ニュアンスは違うかもしれませんが、僕はこう理解しました。つまり、人間は死ぬのが怖い動物だ、ってことですね。
この考えを僕の中でさらに消化するうちに、「なぜころ」にも応用できそうだな、と思い始めて。
僕は、(今は正直実感が湧かないところもありますが)死ぬのが怖い。できれば、なるべく先延ばしにしたい。ということは殺されたくない、とも思っているわけです。それは、僕にとっての死が理解の及ばないものであるということと、今まで見てきた身近な人の死、あるいはペットなどの動物の死に対して抱いた感情(失われたものに対する悲しみなど)から来る、極めて原始的で素朴な恐怖なんだと思います。
もちろん、この種の恐怖から無縁でいられる人もいるんでしょうが、多分、僕と同じように思ってるひとが世の中の多数派なんでしょうね。
すると、どういうことになるのか。
誰かが他の誰かを殺すとき、それは僕の(または「人間」の)原始的な恐怖を呼び起こすんだと思うのです。誰かが殺されたということと、自分が殺されるということを重ね合わせてしまうというか。誰かが殺されることを肯定することは、自分が殺されることをも肯定してしまうと感じてしまって、許すことができないと思ってしまう。
だから、「人を殺してはいけない」ということの一番の根本の部分には、「俺を殺さないでくれ」という素朴な感情があるんだと僕は考えます。言い換えると、これはすごく利己的な論理なんですね。倫理とか宗教とか法律などを持ち出したり、社会を維持しなくちゃいけないからとかなんとか言ったり、そういうのは間違いではないけれども、本質的な問題ではないんだ、と。
「俺を殺さないでくれ」という利己的な論理を支持する人が多数を占める世の中だから、「人を殺してはいけない」ということがルールになっているんだろう、と。殺されてもいい、むしろ殺されたいと考えている人の意向は無視されていて、そういう点でも利己的かもしれません。そのルールの例外規定(戦争とか死刑とか)があるのは、それらが「俺を殺す」方向には(少なくとも味方からは)行使されないという「お約束」が一応あるから、なんじゃないでしょうかね。


こんなんで、納得のいく答えになってるかどうか分かりませんが、ともかく僕個人の実感の伴った内容にはなっているとは思います。