「人間」という言葉について、しつこく書きますよ。

id:yumizouさんから6月11日の「人間」という言葉についての記事にリアクションをいただきました。→『b# - [気になる][言葉]「人間」について』
自分の書いた記事に反応があるのは、ありがたいことです。
それでまた、いろいろ考え中なのですが、とりあえずメモ的に思ったことを書いておきます。以下引用。

「人間」の意味の一つめが「仏語。六道の一つ。人の住む界隈。人間界。人界。人間道。」となっているのは、仏教用語としてまず定着したことを示しているのではないでしょうか。
また、「人界に住むもの。ひと。人類。」という意味の古い用例として示されているのは『今昔物語集』、つまり仏教説話です。その辺りを鑑みるに、仏教用語として入ってきたのではないかと思います(あくまでも推測の域を出ませんが)。

これは、僕が「『人間』という言葉が日本に入ってきた時期については、仏教用語としてが先なのか、そうではない中国語の言葉としてが先なのかは、ちょっと分からない。」と書いたことへのコメントなのですが、僕としては、これは「流入」ということであって「定着」とは必ずしもイコールではない、というつもりだったのです。(が、分かりにくかったですね。というか、どうとでも取れる書き方でした。)それはさておき、定着という観点から見れば、「人間」という言葉は仏教用語として定着した、と僕も思います。
でも、その前に普通の中国語(非仏教用語)として「流入」してきていた可能性はあるんだろう(少なくとも、可能性がまるっきり無い、というわけではない)、ということを言いたかった、と。


ところで、仏教用語として受け入れた主体は誰か、ということも(たぶん)問題で。
仏教という宗教は、日本では、ある時期まで特権階級のものだった。華厳宗とか天台宗とか(たぶん真言宗も)は、古い時代にはけっして庶民の信仰の対象ではなかったんですよね。なので、特権階級の人たちの間で、ある意味でアカデミックというかスノビッシュというか、そういう言葉としてまず定着したんでしょう。そして、そういう中では、意味の誤用というか転用は(無いとは言いませんが)起こりにくいのでないか、という気がしますね。
仏教が、一般庶民にも信仰されるようになってきたのは、いわゆる鎌倉新仏教の時代からではないか。つまり、平安時代末期以降の時代。浄土宗・浄土真宗・日蓮宗禅宗は微妙)などのお坊さんが熱心に布教活動をしていく中で、仏教用語が庶民に浸透していったと思うのですね。だから、「定着」の主体が庶民だとすれば、それはやはりその頃に起こったことだろう、と。
そういう過程の中で、「人間」が本来の「人が住む世界」という意味に加えて、「ひと」という意味も持つようになってきたんだろうな、と想像します。(あくまで、想像です。)おそらく、最初は誤用から始まって、次第にそれが一般的になってきたんでしょう。だから、仏教説話集と言いながらも、用語の厳密さがそれほど問われない「今昔物語集」には、「ひと」という意味での用例が残っていたのかな、という気がします。


あと、『明治のことば辞典』は調べてみようかな、と思いました。
ちなみに、『日本国語大辞典』を「日国大」と略すのは、大学時代の先生がそう呼んでたからです。「日国」と言ってた人は、僕の出身校には居なかったような、いや、居たかなぁ。