給食と弁当に絡んでの雑感。

とりあえず、こちらの記事を読んでください。→『弁償するとき目が光る:学校給食は犯罪傾向と解明不可能な病気への罹患を引き起こす(可能性有りの)世にも恐ろしい制度である』
それで、そこのコメント欄に感想を書こうと思ったらなんか長文になってきたので、ここに書いてトラックバックすることにします。


まず、この記事の中に「親の苦労は自分が親になってから嫌というほど知ればいいんだよ。」という一文があるのですが、全くその通りだと思います。それは、自分自身が親になってから本当に強くそう思います。というか、親の苦労は親にならんと分からないよ、と。そして、親でない人はその苦労を分かる必要はないんじゃないか、と。


僕個人の話をさせてもらえば、子ども(保育園・小学生)時代の親のことを思い浮かべると、給食があってよかったとしか思えません。というか、「弁当の日」なんてなくてよかったな、と。
とくにうちの母親は不規則勤務の仕事(看護師)だったので、もし、「弁当の日」と深夜勤務が重なったら…なんて考えちゃって、ただでさえ憂鬱なことが多かった(その原因は主に自分にある)小学生時代にさらに憂鬱の種を増やすんじゃねぇよ、と感じてただろうな、と。ましてや、給食がなかったら、なんてことであったら、もう、想像するだけで恐ろしい。
親がつらかったり、面倒に感じたりしながら自分に対して何かをしてもらうのは、子どもにとっても気が重いことなんだと思うんですよ。(「だったら、面倒に思わずにやればいいじゃん」なんて意見は無視。世の中には面倒に思わずにやれることのほうが少ないんです。)
「弁当の日」(というか、給食廃止についてか)なんてものを真面目に議論しようとしている人たちには、そういう視点はないんだな、と。所詮、庶民の生活の深い部分なんて知ったこっちゃなくて、自分が知っている限られた社会の「表層」を見て、それで知った気になって何かよく分からないことをもっともらしく語ろうとするのだな、と。そんな風に思えてなりません。


あと、上記リンク先の記事の中で紹介されていた『決議「学校給食に弁当の日を設けることについて」の議事録』を読んでいると、どうもこの決議を提案した人たちは、「働く母親」になにか偏見があるのではないか、という気がします。あるいは、母親に対して過度の期待をしすぎているのではないか、と。
ちょっと長くなるけれども、そちらの記事からの引用。↓

弁当を持って来れない子供のことを考えたら、給食制度は欠くべからざるものであるとの認識が一般的で、学校教育課長も答弁でそのように言われており、給食制度を正当化しようとしていますが、先ほど来、申し上げているように、食事は個々の家庭や個人の自由選択が原則であり、ドイツでは、給食制度に対し、個人の権利を奪うものとして大反対した経過があります。弁当をつくれない理由が、経済的であろうと、女性の社会進出による時間不足が原因であろうと、これらはすべて個々人にかかわるもので、第三者には責任はないものであります。BMWを持とうが、軽四輪にしようが、個々人の選択自由があり、それぞれの生活レベルなり価値観なりに基づき選択するもので、経済的背景の理由により第三者である学校がこれを補完する義務はありません。サラリーマンも、コンビに弁当の人がいるし愛妻弁当の人もおります。これらはすべて個々人の生活の問題であります。自分の腹を痛めた子供に対し母親がどう対応するかは、母親の責任であります。弁当を持ってこれない子供に対して、社会が、学校がどう対応するかは、給食とは別個の問題であります。そして、これらの子供をどうするかは個々にべつに対応を考えるべきものであります。弁当を持ってこられない子供に対しても、もし仮に友達が自分のものを分けてあげたり、他の母親がその子供の分までつくってくれたら、その子供はどう感じるでしょうか。人を助け、かばい、哀れみる心が芽生えることにはなりませんか。
※強調は引用者によるもの

なんつーか、バカじゃないの? 要するに、食事は自己責任でやれ、ということね。だから、子どもの食事は母親の責任で、いかなる理由があっても弁当を作れないのは母親が悪い、(ここには具体的な発言としては出てこないけれど)母子家庭とか父子家庭についても同じだよ、と。そうはっきりとは言ってないのかもしれないけど、そう言いたい雰囲気で溢れてる。
あのさ、ひょっとして「女性の社会進出」って、女性の自己実現のためかなんかと勘違いしてないかな? 人が働くのは、自己実現のためなんかじゃなくて、生活するためなの。そして、生活するために働くのにも、いろんな仕事があるわけ。
例えば、あなたが交通事故や脳梗塞とか心筋梗塞の発作かなんで深夜に病院に運ばれたりしたとき、新米の医者しか当直にいなくても、一命を取り留めることが出来るのは、経験豊富なベテランの看護師さんがいるからかもしれない。その看護師さんにも小学生の子どもが居て、ひょっとしたら母子家庭かもしれない。深夜勤務明けは朝ごはんを作ってあげることが出来ないので、子どもによく言い聞かせて、買い置きのパンなんかで済ませてるかもしれない。今は給食があるから昼ごはんは心配しなくてもいいけど、夕方のシフトのときは、夕ごはんは作り置きしたものを電子レンジで温めてね、ってときもあるかもしれない。でも、給食がなくなったら、弁当を作ってあげなくちゃいけない。作れるときはいいけれど、どうしても作れないときもあるだろう。そういう時はコンビニ弁当で済ませるしかないかもしれない。仕方ないと思いながらも、母親は引け目を感じるだろうし、それを子どもは察知してその引け目を共有してしまうかもしれない。そして、今までどおり給食が続いていれば、感じなくてすんだ引け目を抱えて成長していくのかもしれない。それでも、その母親は働くんだ。生活のために。
「だったら、そういう子どもを持つ人だけは、別シフトにすればいい」って言う人がいるかもしれないけれど、深夜に倒れて救急車で運ばれた先には研修医と経験不足の看護師しかいない、なんて事態になってもよければそれでもいいかもね。(実際、そういう風になってる病院もあるんだろうけど、それはまた違う話。)じゃあ、そういう事情の子どもだけは特別扱いで、何か対策を考える? それもなんか変じゃないかな。こういうレアケースを持ち出して反論するのはいかがなものか? いや、極端な例かもしれないけど、「働く」ってことは基本的にはこういうことでしょう。
とにかく、この発言をした人は、そういうことには思い至らないんだな、全然。別にこの人に分かってもらえなくてもいいけど、政治家ならば少しは考えたらどうかと思うよ。自分の足を使って、いろいろ調べてさ。まぁ、本音は別のところにあるんだろうけど、それを前面に出したくないものだから、こんなよく分からない発言になったんだろうと思うけど。
でも、実はこれを本気で思ってて、子どもに弁当も作れないなら女は働くなとか、母子家庭や父子家庭もさっさと再婚すればいいだろとか、しないのなら自業自得だろとか、口には出さなくてもほんとは言いたいんじゃないの、とも邪推してしまう。(邪推だよ、邪推。)もし、万が一、そんなふうに考えてるのなら、なんてこの人は立派な人なんだろう、こんな立派な親御さんのお子さんなら、さぞや素直で優秀な人格者に成長されるでしょうね、なんて軽口を叩きたくなってしまうだろうな。
なんか、ほんとに頭にきたので、感情的な文章になってしまいました。不快に思われた人がいたら、ごめんなさい。けど、そう思っちゃったんだからしょうがない。


ちなみに、中学に上がってからは、給食がなくなったので半分くらいは自分で作ってましたね。作ったといっても、タイマー予約で炊いたご飯に、冷蔵庫のあまりものを弁当箱に詰め込んだだけのものでしたが。そういうものを持っていっても、引け目を感じないぐらい自分も大人になっていたので、別になんとも思いませんでした。