「人間」という言葉はいつから「ひと」という意味になったの?

『極東ブログ: 人気、人形、人情、人数、人間、人民(にんみん)』という記事を読んで、「なるほどね、勉強になるな」と思ったのですが、記事の内容とは直接関係ないことが気になってしまいまして。


それは「人間」という言葉について。
初めは、「そういえば、この言葉には『にんげん』の他に『じんかん』という読み方があるな、どういう意味だったっけ」ってことを思って。早速、国語辞典の「じんかん」の項を引いてみると、「世の中。世間」とある。「人間到るところ青山あり」という慣用句も載ってて、はいはいそうだった、と思い出した。


すると次に、「にんげん」と「じんかん」ではどっちが古い読み方だろうか、ということが気になってきて。今度は『広辞苑 第四版』を引っ張り出して、「にんげん」の項の周辺を見てみる。(というか、「じんかん」の項を見たら、「⇒にんげん(人間)1」とあった。そちらを見ると、「人の住む所。世の中。世間」とある。ふーむ。)
そうしたら、「人間道(にんげんどう)」という言葉があるのに気付く。これは「六道」の一つのことで、「人道(にんどう)」*1とも言う。簡単に言うと「人間の住む世界」という意味。もちろん仏教用語だ。
となると、「人間」が「にんげん」(という読み)になったのはかなり古そうだ。少なくとも「じんかん」よりは古そう。でも、いつから「じんかん」と言い出しかは分からない。上に挙げた「人間到るところ青山あり」という慣用句は、幕末のお坊さんの書いた漢詩から取られている。ただ、それは「漢籍を読むときは漢音で」というルールに準じてるだけのような気もする。
あ、違うのか。呉音の「にんげん」と漢音の「じんかん」だったら、呉音の方が古いのは当然で。後の時代に(日本で)「漢籍を読むときは漢音で」というルール(というか慣習)ができてから、「じんかん」とも言われるようになった、ということか。ってことは、平安時代くらいには両方使われてたのかな。
それで、今は「じんかん」は「世間」という意味でしか使われなくなって(それだってほとんど廃れてしまってるけど)、「にんげん」は主に「ひと」という意味で使われている、と。


読み方の問題は、とりあえず(ほんとにとりあえず)それで良いとして、さらに気になったのは「人間」という言葉の意味そのもの。
ここからは、100%推測なんだけど、元々はさっきも書いた仏教用語の「人間道」からきてるんじゃないかな、と。で、「地獄道」の「道」を略して「地獄」と言っても意味が変わらないように、「人間道」の「道」を省いて「人間」(あるいは「間」を省いて「人道」)としても「人の住む世界」という意味では同じだよ、となったのでは。
うーん、これが間違ってても、「人間」は「にんげん」と読もうが「じんかん」と読もうが、「人の住む世界」から「世間」という意味になっていったのは確かだと思う。
問題は、いつ頃、どういう経緯で「人間」が「世間」から「ひと」という意味で使われるようになったか。
僕は今まで、漠然と、とくに根拠もなく「human beingかなんかの訳語だろうな(つまり、明治期くらいに成立した意味だろう)」と思ってきたのだけど、これがどうもよく分からない。WEB上で検索してみても、やり方がまずいのか参考になりそうな記事になかなか出会えない。
漢詩などでは「世間の人々」という意味でも用いられている場合もあったようだけど、それは現在の「人間」とは大分ニュアンスが違う気がする。でも、明治より前に「ひと」という意味で使われた例はないのだろうか。
広辞苑』には「(社会的存在として人格を中心に考えた)ひと。また、その全体」という説明があって、いよいよもって訳語臭いが、それは僕の勘通りhuman beingの訳語なんだろうか。それとも全然違うもの?


…というところで行き詰まってます。誰かこのことについて詳しい方っていませんか?
教えてもらえたら、とてもとても嬉しいです。(って、結局、他力本願かよ。)

(2006/6/8 AM9:15 修正加筆)

(2006/6/12追記)

ここに書いたことは、後で大間違いであったことが分かりました。6月11日の日記にはもう少しまともなことが書いてあります。できれば、そちらも併せてお読み下さい。

*1:余談だけど、今「人道的」とか「人道主義」と書くと、「じんどう」と読むのが普通。これは、多分元はhumanismの訳語だったんだろうが、今はhumanitarianismに近い意味になっている、ということは手元の英和辞典などから推測できそう。ただし英語のhumanismではなくて、フランス語あたりの訳語かもしれない。よく分からない。(えー)