人に優しく

『煩悩是道場-「うたのおねえさんのアートがネットに与えた衝撃!!」が私に与えた衝撃』を読んで。
僕がululunさんを好きなのは、こういう記事を書いてくれるからなんだよな、と思いました。以下引用。

テレビという、多数の人の目に晒される場で「うたのおねえさん」という職業を選択したのは、他ならない彼女であろう。しかしその決意をした瞬間から自分の欠点に対する嘲笑に耐えなければならない覚悟を背負わなければならないとは、私は思わない。

もしそんな覚悟を背負ったのだとしても、それはほんの一瞬の出来事であって欲しいし、少なくとも企業のウエブログがこのような形で取り上げて良い性質のものではないものと思われる

この文章を読んで、僕は「ululunさんって優しい人だなぁ」と思うわけです。「彼女」という人間を大事にしよう、という視点が感じられるんですよね。
ululunさんが問題にしているのは、「企業の運営するサイトで情報を発信する態度」がそれでいいのか、ということなんでしょう。そして、今回の件に関してはそれ(ululunさんの指摘)はもっともなことだなぁ、と思います。


ところで、僕としては、少し違うことも問題なんだろうということを思ってて。
「うたのおねえさん」の件については、たまたまうちの奥さんが番組のオンエアを見ていて、「すごかったよ」という話を聞いてました。だから、実際どんなものだったのだろう、という興味はあって。そして、WEB上(というかYouTube)で問題の映像を実際に見てみて、「これは確かにすごい」とも思いました。そういう意味では、僕自身もこの「現象」を消費した(楽しんだ)1人です。
で、『うたのおねえさんのアートがネットに与えた衝撃!! / デジタルARENA』という記事が書かれるに至った背景には、僕自身も含めた「WEB上の消費行動の動き」みたいなものがあって、それを踏まえた結果なんだってことも言えると思うんです。つまり、この「デジタルARENA」の記事に対しては、僕にも幾ばくかの責任があるんだろう、と。
もちろん、文責というものは記事を書いた本人にあるわけで、その責任が減じられることなんてないんですけど。
しかし、少なくとも情報というものが、それを発信する側によってだけでなく、情報を受け取る側も含めて形成されるんだ、ということは言えると思います。極端な話、アクセスログを残すだけでも、状況に加担していることになります。
しかも、WEB上では情報の発信者であるか受信者であるかが、かなり流動的です。ある記事を読んで、はてブでコメントをつけたり、自分のブログで感想を書いたりしたら、その時点で受信者から発信者に変わってしまいます。そして、「発信者」となれば、影響力の大小はありますが(そして、それもとても重要なことではありますが)、企業だろうと個人だろうと本質的な違いはないんだろうと思います。
よく「メディアリテラシー」なんて言葉が使われますが、これは「メディアから発せられた情報をどう読み解くのか」という意味で用いられることが多いと思うのですが、「情報をどのように発信するのか」ということでもあります。発信する側も受信する側も同じようにリテラシーが必要だし、その立場が変わることに自覚的であった方が(自覚的でないよりは)良いんじゃないでしょうか。


で、僕が言いたいのは、ここまで書いてきた広い意味での「情報の発信者」はもっと人に優しくなればいいのに、ということです。
批判をするなとか悪口を言うなとかそういうことではなくて、ある状況(「祭り」でもなんでも呼び方はいろいろあるでしょうが)が作られるときに、自分もそれに加担しているんだということを意識していれば、そう無茶苦茶なことは書けないという気がするんです。あるいは、こういうことに自覚的であって、その上でする批判や罵倒は、自覚的でない場合に比べて、言葉の「強度」が全然違うのだろうとも思います。何よりも、書くのも読むのも同じ「人間」なのだから、深く考えられた批判の方が、そうでない批判より「優しく」感じられるのは当たり前でしょう。
ちょっと、押し付けがましい言い方になってしまったかもしれませんが、僕は時々こういうことを考えます。願望として。自戒も含めて。