「あきらめ」という言葉

昨日の日記で言及した「歓楽叶わぬ納骨堂庭園」のid:xuraさんから、「誰かの言葉が気付かせてくれる」という記事でリアクションを返してもらいました。
丁寧な記事で、こちらこそありがとうございますと言わなければ。


で、ここからはxuraさんに向けてというわけではないんですが、昨日の僕の記事を読んで、「あきらめ」という言葉から、ネガティヴな印象をもたれる人もいると思うんですよね。でもそれは、間違いとは言わないけれど、100%正しいわけでもありません。「あきらめ」という言葉にはポジティヴな意味もありますから。
仏教で「諦」というと、大雑把に言えば「真実を明らかにする」という意味になります。僕は仏教の専門家でも何でもないので、細かなニュアンスは違っているかもしれませんが、僕なりに解釈すると、これは「真実を明らかにして、それ受け入れる。そうして初めて次のステップに進める」ということになるんではないか、と思ってます。
これを昨日の記事の場合にあてはめると、まず「他人に自分を決め付けられるのは、自分にはどうすることも出来ない」という動かしがたい事実(これは、昨日も書いた通り、人の心の動きは変えさせようがないということ)があることを認識して、それを受け入れてしまう。それが出来れば、次にどうするかを考える。自分に出来ることは何か。
僕はそこで「自分では『決め付け』をしないようにしよう」と思うことにした、というわけです。「どうせ分かってもらえないんだし」と投げ出してしまうことも出来るんでしょうけど。
もちろん、「分かってもらえない」ということと「分かってもらえるよう努力しない」ということは全然別のことだし、「決め付けをしない」ことと「分かろうとしない」ことも全く別のことです。
ただ、ちょっと押し付けがましいことを言わせてもらえば、全ての人がそれぞれに「自分では『決め付け』」をしないようにしよう」と思うのならば、この世界はもう少し生きやすくなるんじゃないかなぁ、って気はします。


最後は、ちと胡散臭い話になっちゃいましたね。(^-^;


(2006/5/19追記)

xuraさんから、さらにリアクションがありました。→「生き難い世界だからこそ人は強くなれるのではないか?」
表現方法は違うけれども、向いている方向は僕とそんなに違わないんじゃないか、と思います。でも、「違う」ってのも大切なことなんで。僕とxuraさんの違いって何だろうということも、これから少し考えていきたいところですね。