ブログでの議論・論争がプロレス化していくのは、むしろweb2.0そのものがプロレス的だからではないかという暴論

以下の記事は、web2.0の正確な意味も把握していない者が、勘と妄想だけで垂れ流している駄文です。なので、書いてあることを鵜呑みにするのは、絶対にやめて下さい。「アホなこと書いてんなぁ、コイツ」と嘲笑するのが正しい読み方です。


一昨日あたりで、ようやく「文化系女子」という言葉を巡る論争(?)の輪郭を、おぼろげながらに理解したのですが、僕としては何も語ることは無くて、単なる野次馬として、いろんな方のエントリを読んでいました。それで、その論争が、全体として非常にプロレス的であるなぁ、ちょっと興味深いなぁ、などと思ったんですね。
大きな対立軸が一つあって、細部のディテールについての議論があり、それが進行していく過程で、新たな対立軸の提示や第三勢力(?)の台頭がある。そういったことが、プロレスのストーリーの作り方と似ているんじゃないか、と。当事者同士が意識しているかどうかに関わらず。


で、頭の中でいろいろ考えていたのですが、ululunさんの昨日のエントリ(d:id:ululun:20060514:misc060514)を読んで、ふと思ったことがあって。
それは、まず僕自身がululunさんのおっしゃる「自分もうんこを晒しながら、他人には『うんこを晒すな』と言う」(意訳)ようなことをしてないか、という自省もありつつ、「読み手と書き手を明確に分ける意識はweb2.0的ではない」(また意訳)という辺りを読んで、あぁそうだよねぇ、と感じて。
僕の脳内では、これが「読み手も状況に加担しているんだ」という意味に読めたのですね。それって、すごくプロレス的なんじゃないでしょうか。


「プロレス」というスポーツは、レスラーだけでは成立しません。レフェリーはもちろん、リングアナやセコンド、TV中継があれば実況アナや解説者、スポーツ紙・専門誌等の記者やカメラマン、その他大勢のスタッフや関係者がいて、作り上げられているのです。
そして、それ以外のとても重要な構成要素に、「観客」が挙げられます。試合会場に行ってみればよく分かるのですが、観客の反応というのはプロレスにおいては、かなりの比重を占めています。コール&レスポンスだけでなく、歓声や野次まで含めて、ひとつのエンターテイメントになっている。
つまり、観客は完成された作品を見せられるのではなく、状況に積極的に加担していくことによって、それを楽しんでいるのです。言い換えれば、プロレスは観客の存在によって完成に近付いていく。(しかし、そこから新たな展開に繋がっていって、決して完結することが無いという側面もあります。)
さらに言えば、テレビの視聴者や新聞・雑誌の読者も、視聴率や販売部数といった間接的なものではあるけれど、状況に加担しているという意味では、プロレスの構成要素の一つである、と言ってもいいかもしれません。*1
まぁ、お客さんの良い反応を引き出すことのできる試合が、良いプロレスである、と。


で、これをブログにおける論争に置き換えて考えると、当事者と目されている人たちはまさにレスラーだし、茶々を入れたり分かりやすくまとめたりする人たちはセコンドや解説者で、それがまた場外乱闘を呼び込んだりして、さらに状況を混沌とさせたり、事態を収拾させようとするレフェリー又はマッチメイカー的な人も居て、まさにプロレスそのものでは。(議論がなかなか決着しないところも似てますね。)
はてブでコメントつけたり、野次馬的なエントリを上げたりするのは、試合会場に来た観客。ROMってるだけの人もアクセスログを残したりしているという意味では、少なくともテレビの視聴者くらいには状況に加担していますよ、と。
というわけで、僕もこのエントリを上げたことで、野次馬ではあるけれども、状況に加担してしまったということになります。


このように、関わった人全てが当事者となる(もしくは当事者性を帯びる)ブログ界は(あるいはweb2.0的世界は)、極めてプロレス的であり、そこで行われる議論・論争はすべからくプロレス化してしまうのである、と言っても過言ではないかもしれませんし、過言かもしれません。なんじゃそりゃ。


あと、付け加えるとすると、「アングル」という言葉をあまり独り歩きさせないでほしい、WWEやハッスル!だけがプロレスの全てじゃないよ、なんだかんだ言って俺が一番好きだった団体は今は亡きGAEA JAPAN*2だったなぁ、ということですかね。

*1:その意味では、PRIDEやK-1もまさにプロレス的であると言えますね。リング上の試合そのものは、「非プロレス」であっても。最近のボクシングの亀田興毅選手のメディアでの展開の仕方も、良くも悪くもプロレス的かもしれません。

*2:女子プロだよ、文句あっか!