「弁償するとき目が光る」で言及されました

4月11日の日記について取り上げていただきました。
→『「ブログ文章術」は言い訳に満ちている』http://yuki19762.exblog.jp/4392074/
えーと、まず「萌え」云々については、僕が勝手にそう解釈しただけで、米光さんがそう思ってるかどうかは分かりません。4月11日の日記には米光さんからもコメントをいただきましたが、そのことには触れておられなかったし。


ただまぁ、「ブログ文章術」の記事の中に出てきた例え(興奮しながら映画について語る友達)が、あの記事全体の流れからいって妥当かどうかは、評価が分かれても仕方がない、とは思う。
yuki1976_2さんのように「単純に萎える」という人も居て当然だろう。
で、yuki1976_2さんは「弁償するとき目が光る」の記事の中で

それに『(広義の意味で)「萌え」させることができる文章/ブログが面白い文章/ブログ』だと言われたところで「何を今更」だったりする。

とも書かれているのだが、(それは米光さんが言ったことではなくて、僕が言ったことなので)「何を今更」ということであったのなら、「ごめんさい」と謝るしかない。
でも、一つだけ言わせてもらえば、『映画について語る友達』という例え話が妥当かどうかなんて、どうでもいいことだと思う。
その例えがしっくりこないので論旨全体に説得力がない、ということなのだろうけれど、しっくりくるかどうかは読み手次第でしかない。例え話というのはそういうものです。


ここから話がずれるけれど、ある文章/ブログが(広義の意味で)「萌え」るかどうかも、読み手次第でしかない。太宰の作品を読んで「萌える」という米光さんと、「萌えない」という僕のように。
映画の話にしても、yuki1976_2さんのように「単純に萎える」人もいれば、僕のように「萌える(かもしれない)」と思う人もいる。
以前別ブログの記事で「書く人の気持ちと書かれた文章とは、別のものなんだ」ということを書いたことがあったが、今回の件に絡めて言えば、「ブログ文章術」の記事を読んだ僕の感想とyuki1976_2さんの感想は、随分違ったものになっているが、どちらが正しいなんてことはない。たぶん、どちらも米光さんの意図とは違っているんじゃないかとも思う。けれども、それは仕方のないことなんだ。


僕は、「文章というものは、それがいったん書かれた(発表された)後は、書き手の物ではなくて、読み手の物になる」と考えている。
発表された文章は、ほとんど例外なく書き手の意図を無視して読み手に伝わってしまう。書き手にとっては、それは誤解・曲解の類に思えるが、読み手にとっては解釈の一つでしかない。
自分の書いた文章を、全く誤読されることなく読み手に伝わると考えている人は、僕に言わせれば傲慢だ。別に傲慢でも構わないけれど。傲慢であっても、事実は変わらない。


だからといって、誤読されるのを恐れて書かないのはもったいない。むしろ、誤読されるのを楽しむくらいの方がいい。少なくとも、誤読されるのを苦にしないで、書くのだ。
なので、この文章も誤読されるだろうけれど、構いません。いや、気にしないようにします。なるべく。


(追記)「気にしない」はおかしいな。どういう風に解釈してもらってもいいです、むしろ、それを楽しむ方向でいきます、ということですね。